HAIKU

2023.07.11
『世界の食卓から社会が見える』 岡根谷実里・著  大和書房・刊  

『世界の食卓から社会が見える』 岡根谷実里・著  大和書房・刊   

 著者の岡根谷実里の肩書は台所探検家である。岡根谷によれば、台所探検家とは世界各地の家庭を訪れ、滞在させてもらいながら一緒に料理をし、料理から見える社会や暮らしを伝える仕事だという。実際に岡根谷はボツワナやイスラエルなどの普通の人々の家にお邪魔して、その家の主婦とともに台所に立つ。
この本の取材に同行したNHKのドキュメント番組を観たのだが、彼女が取材先の家族とすぐに打ち解け、料理や買い物をしながら自分の知りたいことに最短距離で迫っていく好奇心の強さとコミュニケーション能力の高さに驚かされた。それを可能にしているのは、岡根谷が市井の人々の暮らしを心から尊重しているからだろう。
 岡根谷はこの本を書いた理由として、「世界一おいしい社会科の教科書を作りたかった」と述べている。中学までの社会科は暗記ばかりで面白くなかったが、高校で地理が好きになったのは、気候や資源を知ることでこの世界の理がちょっとわかった気になったからだという。台所を通してその土地土地の風土や歴史を知る歓びが彼女の執筆の動機であるなら、それは俳句ととても似ている。俳句も季節を通して世界に触れようという試みなのだから。

 岡根谷はまずブルガリアの台所を探検しに行く。日本では「ブルガリア=ヨーグルト」というイメージが定着しているが、それが本当なのかを確かめるためだ。首都ソフィアから車で2時間の小さな街の家庭を尋ねると、そこで暮らすマルギーさんが笑顔で迎えてくれ、早速、昼食を作ってくれた。メニューはヨーグルトのスープ「タラトール」。刻んだ胡瓜に砕いたクルミを加え、ヨーグルトをパックまるごと入れてニンニクと塩で味を整えたものを冷やして食す。日本で言えば冷汁のような夏の定番料理だ。この豪快なヨーグルトの使い方はイメージ通りで、統計を調べてみるとやはりブルガリアでは一人当たり日本の3倍ほどのヨーグルトが消費されていた。
 ここで岡根谷はブルガリアのヨーグルト消費量の推移を調べてみる。すると1989年までは、何と現在の3倍消費されていたことが判明。その後、急激に減っていく。原因は1991年のソ連崩壊だった。当時のブルガリアは他の東欧諸国同様、社会主義国家で、お金があれば好きなものを食べられる資本主義国と違って、「すべての国民が平等に栄養のあるものを食べられる」という考えに基づいて食料計画が立てられていた。ヨーグルトは完全栄養食として重宝され、政府が推奨していたのだった。
それゆえ生乳生産が大規模に行なわれていたのが、ソ連崩壊後は小規模農家に分散し、ヨーグルトの生産量が激減して今に至る。岡根谷はマルギーさんと一緒にスーパーマーケットに行き、ヨーグルトの棚を見ながら、ブルガリアの政治体制の変化に思いを馳せるのだった。

「乳搾る明けのオリオンやはらかく 鈴木牛後」(季語:オリオン 冬) 
「寒明の飛び散る乳のほの甘き 牛後」(季語:寒明 春) 
 一人の酪農家として乳牛と向き合う牛後の句は、非常に魅力的だ。酪農作業を通して季節と生活が活き活きと描かれる。だが一方で生乳の使途や生産調整に関しては、日本政府の農政に左右されることを免れない。ブルガリアでは資本主義の導入以降、ヨーグルトのバリエーションは増えたが、同時に儲け主義の事業者も増えて原料の質が落ち、「ソ連時代のヨーグルトのほうが美味かった」という国民もいるそうだ。七十才くらいのマルギーさんはその時代をリアルに経験しているので、興味深い台所探検となった。

 岡根谷は様々な国の台所に足を運ぶ。メキシコでは手焼きのトルティーヤ(タコスの皮)を食べて虜になってしまう。日本ではタコス料理がアメリカ経由で輸入されたので、現地のタコスよりアメリカナイズされていて、本場モノとは格段に差があることを体感。また中国では中秋節に月餅を贈り合う伝統があるのだが、大きくて油っこい旧来の月餅は食べ切るのが難しく、近年、月餅の大量廃棄が問題になっていることを知る。日本在住の香港料理研究家のジャニタさんの台所で、コンパクトであっさり味の「ピンピー月餅」を教えてもらい、伝統菓子の進化形を学ぶことになった。

 この本でいちばん印象的だったのは、ヨルダンに住むシリア難民の台所だった。受け入れてくれた主婦のサマルさんは、街中のアパートで家族3人暮らし。経済的には恵まれておらず、冬でも暖房はストーブ1台のみ。それでもいろいろな料理を手作りして、豊かな食生活を営んでいる。
岡根谷は台所の棚にたくさんのオリーブの漬物を発見して、サマルさんの食べ物に対する知恵と愛情を見て取る。ご主人に「彼女は節約してますね」と尋ねると、彼は「いえ、これが生きるということです」と応える。
サマルさんは近所に住む難民の子供たちを毎日のように食卓に招き、手製のシリア菓子を振る舞う。子供たちの笑顔がご主人の言葉と重なって、世界の理の一部が見えた気がした。安易に政治情勢や歴史と食べ物を結びつけるのではなく、狭い台所から世界を見ようとする岡根谷の舌と目と耳に、台所探検の真髄を見た。
「牛乳に溶く春光の五千粒 牛後」(季語:春光 春) 

                 俳句結社誌『鴻』2023年7月号 
                  連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2023.07.11
『世界の食卓から社会が見える』 岡根谷実里・著  大和書房・刊  

『世界の食卓から社会が見える』 岡根谷実里・著  大和書房・刊   

 著者の岡根谷実里の肩書は台所探検家である。岡根谷によれば、台所探検家とは世界各地の家庭を訪れ、滞在させてもらいながら一緒に料理をし、料理から見える社会や暮らしを伝える仕事だという。実際に岡根谷はボツワナやイスラエルなどの普通の人々の家にお邪魔して、その家の主婦とともに台所に立つ。
この本の取材に同行したNHKのドキュメント番組を観たのだが、彼女が取材先の家族とすぐに打ち解け、料理や買い物をしながら自分の知りたいことに最短距離で迫っていく好奇心の強さとコミュニケーション能力の高さに驚かされた。それを可能にしているのは、岡根谷が市井の人々の暮らしを心から尊重しているからだろう。
 岡根谷はこの本を書いた理由として、「世界一おいしい社会科の教科書を作りたかった」と述べている。中学までの社会科は暗記ばかりで面白くなかったが、高校で地理が好きになったのは、気候や資源を知ることでこの世界の理がちょっとわかった気になったからだという。台所を通してその土地土地の風土や歴史を知る歓びが彼女の執筆の動機であるなら、それは俳句ととても似ている。俳句も季節を通して世界に触れようという試みなのだから。

 岡根谷はまずブルガリアの台所を探検しに行く。日本では「ブルガリア=ヨーグルト」というイメージが定着しているが、それが本当なのかを確かめるためだ。首都ソフィアから車で2時間の小さな街の家庭を尋ねると、そこで暮らすマルギーさんが笑顔で迎えてくれ、早速、昼食を作ってくれた。メニューはヨーグルトのスープ「タラトール」。刻んだ胡瓜に砕いたクルミを加え、ヨーグルトをパックまるごと入れてニンニクと塩で味を整えたものを冷やして食す。日本で言えば冷汁のような夏の定番料理だ。この豪快なヨーグルトの使い方はイメージ通りで、統計を調べてみるとやはりブルガリアでは一人当たり日本の3倍ほどのヨーグルトが消費されていた。
 ここで岡根谷はブルガリアのヨーグルト消費量の推移を調べてみる。すると1989年までは、何と現在の3倍消費されていたことが判明。その後、急激に減っていく。原因は1991年のソ連崩壊だった。当時のブルガリアは他の東欧諸国同様、社会主義国家で、お金があれば好きなものを食べられる資本主義国と違って、「すべての国民が平等に栄養のあるものを食べられる」という考えに基づいて食料計画が立てられていた。ヨーグルトは完全栄養食として重宝され、政府が推奨していたのだった。
それゆえ生乳生産が大規模に行なわれていたのが、ソ連崩壊後は小規模農家に分散し、ヨーグルトの生産量が激減して今に至る。岡根谷はマルギーさんと一緒にスーパーマーケットに行き、ヨーグルトの棚を見ながら、ブルガリアの政治体制の変化に思いを馳せるのだった。

「乳搾る明けのオリオンやはらかく 鈴木牛後」(季語:オリオン 冬) 
「寒明の飛び散る乳のほの甘き 牛後」(季語:寒明 春) 
 一人の酪農家として乳牛と向き合う牛後の句は、非常に魅力的だ。酪農作業を通して季節と生活が活き活きと描かれる。だが一方で生乳の使途や生産調整に関しては、日本政府の農政に左右されることを免れない。ブルガリアでは資本主義の導入以降、ヨーグルトのバリエーションは増えたが、同時に儲け主義の事業者も増えて原料の質が落ち、「ソ連時代のヨーグルトのほうが美味かった」という国民もいるそうだ。七十才くらいのマルギーさんはその時代をリアルに経験しているので、興味深い台所探検となった。

 岡根谷は様々な国の台所に足を運ぶ。メキシコでは手焼きのトルティーヤ(タコスの皮)を食べて虜になってしまう。日本ではタコス料理がアメリカ経由で輸入されたので、現地のタコスよりアメリカナイズされていて、本場モノとは格段に差があることを体感。また中国では中秋節に月餅を贈り合う伝統があるのだが、大きくて油っこい旧来の月餅は食べ切るのが難しく、近年、月餅の大量廃棄が問題になっていることを知る。日本在住の香港料理研究家のジャニタさんの台所で、コンパクトであっさり味の「ピンピー月餅」を教えてもらい、伝統菓子の進化形を学ぶことになった。

 この本でいちばん印象的だったのは、ヨルダンに住むシリア難民の台所だった。受け入れてくれた主婦のサマルさんは、街中のアパートで家族3人暮らし。経済的には恵まれておらず、冬でも暖房はストーブ1台のみ。それでもいろいろな料理を手作りして、豊かな食生活を営んでいる。
岡根谷は台所の棚にたくさんのオリーブの漬物を発見して、サマルさんの食べ物に対する知恵と愛情を見て取る。ご主人に「彼女は節約してますね」と尋ねると、彼は「いえ、これが生きるということです」と応える。
サマルさんは近所に住む難民の子供たちを毎日のように食卓に招き、手製のシリア菓子を振る舞う。子供たちの笑顔がご主人の言葉と重なって、世界の理の一部が見えた気がした。安易に政治情勢や歴史と食べ物を結びつけるのではなく、狭い台所から世界を見ようとする岡根谷の舌と目と耳に、台所探検の真髄を見た。
「牛乳に溶く春光の五千粒 牛後」(季語:春光 春) 

                 俳句結社誌『鴻』2023年7月号 
                  連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店