HAIKU

2022.06.13
映画『杜人』 前田せつ子・監督 

映画『杜人』 前田せつ子・監督   
『杜人(もりびと)』の主人公・矢野智徳は1956年、北九州市生まれ。父の始めた花木植物園「四季の丘」で十人兄弟とともに植物の世話をして育つ。東京都立大学で自然地理を専攻し、在学中に一年間休学して日本一周を敢行。各地の自然環境を見聞して周る。阪神大震災で被害を受けた庭園の樹勢回復作業を行なう中で、環境改善施工の新たな手法に取り組み始め、現在に至っている。本作はそうした矢野の活動を追ったドキュメンタリーだ。 
映画は屋久島の浜辺から始まる。生態系連鎖として人間が行なっている開発の影響で、皮肉なことにガジュマルの木は弱って葉を落としていた。「ガジュマルに向かって動く空気流を、少し促すようにひらいていく」と言いながら矢野は、鎌で周囲の草を刈り、小さなスコップで土を掘る。すると滞っていた水が流れ始める。ボランティア・スタッフたちは驚きの声を上げ、矢野の作業に加わる。水は波紋を描きながら海へと流れるようになった。「これだけでガジュマルは息をし始める」。しばらくしてガジュマルは胴吹き始めたのだった。 
この魔法のようなオープニングで、一気に映画に引き込まれた。しかしこれは魔法ではない。矢野が経験と研究から得た方法の実践なのだ。以降、カメラは水捌けの悪い校庭から水害現場まで、精力的に飛び回る矢野を追う。雑草は敵ではなく、植生のいちばん下にありながら、高い樹木に至るまでの空気と水のバランスを保っていると矢野は説く。土砂崩れは大地の深呼吸だとも。土や草木、虫や蟹までもが地球のバランスを保つためにそれぞれの役割を果たしていることを、矢野は「空気流を促す」などの独特の言葉で語る。それは説明でも演説でもなく、一篇の詩のように響く。
「私は造園をやりながら、なぜ森や草原は管理をしないのに見事にきれいに風が通るのか、それをずうっと観察してきた」。風に揺れる木の枝の揺れの変わり目部分が剪定すべきポイントであり、草を刈るべき場所も風が教えてくれると語る。名付けて「風の草刈り」。映画の制作スーパーバイザーの纐纈あやは、こうした矢野の言葉について「私が知らないことではなく、忘れていたことのように思えた」とパンフレットに書いている。

「ほつほつと折れはじめたる蘆を刈る 後藤夜半」(季語:蘆刈り 秋) 
 矢野の「風の草刈り」と瓜二つではないか。枯れて折れ始めた蘆は「そろそろ刈ってくれ」と人間に催促している。蘆は次の世代のために場所を明け渡そうとし、人間は刈った蘆を簾(すだれ)や茅葺屋根に利用する。こうして里山は豊かな循環を保ってきた。
「刈るほどに山風のたつ晩稲かな 飯田蛇笏」(季語:晩稲 おくて 秋) 
「岩に手を触れて茸の季とおもふ 飯田龍太」(季語:茸 きのこ 秋)  
 親子して土着の精神を詠んだ二人の句は、矢野と同じ視点で自然を捉えている。「刈るほどに」は、稲を刈るから山風が吹くのか、山風が吹くから稲を刈るのか。田圃と山の結びつきの強さを、蛇笏は直感している。「岩に手を」は、手に触れた温度や湿度で茸の収穫期を覚るのが龍太の毎年の習いだった。甲斐の山中を拠点とした親子俳人の心根が快い。 

「水打てば夏蝶そこに生れけり 虚子」(季語:夏蝶 夏) 
「流れ行く大根の葉の早さかな 虚子」(季語:大根 冬) 
 山梨県上野原の水捌けの悪い農道に矢野は出向いた。例によって小さなスコップで溝を切ると、水が流れ出す。間もなくそこにトンボが飛んで来た。「動き出したら来るんだよ。アゲハチョウもトンボも」と矢野。「水打てば」の句は、暑さの折、人間が涼を求めて水を打つ。するとその場所に潜んでいた蝶が飛び立った。水によって蝶もトンボも人も命を吹き返したのだった。「流れ行く」は、上流で誰かが収穫したばかりの大根を洗っているのだろう。流れの速さが、里山の水路が健全に機能していることを表わしている。 
 
 「『杜』とは この場所を『傷めず 穢さず 大事に使わせてください』と人が森の神に誓って紐を張った場」だと矢野は言う。屋久島の浜辺であれ、山梨の山中であれ、『杜』は日本中に遍在してきた。矢野は環境再生医として、壊されてしまった杜を治す。しかし施主や集まってくるボランティア・スタッフたちに、環境問題の安易な解決方法を示そうとはしない。そしてカメラは、再生の過程と周辺の人々の喜びや哀しみを淡々と撮るだけだ。映画『杜人』は環境の危機を声高に訴えたりはしない。その代わりに、再生した杜の美しさを丁寧に映しだす。心に何が残るのかは、観る人次第だ。
 ところでこの映画の監督・前田せつ子は、僕の古くからの友人である。音楽雑誌や映画雑誌の編集を経て、フリーランスとして『いのちと味覚』(辰巳芳子・著)や『フジコ・ヘミング 14歳の夏休み絵日記』の編集を手掛けた。矢野とは彼女が住む国立市の街路樹伐採計画をキッカケに、14年に出会った。18年3月にムービー制作ワークショップを受講し、その年の5月から『杜人』の撮影を開始したというから、その行動力には恐れ入る。初の長編映画となる本作では監督の他、制作、撮影、編集を担当。そのパワーと志にエールを贈りたい。『杜人』は公開されるやいなや全国で上映が次々と決定しているので、ぜひ観てほしい。
「揺れ足りしものより枯れのはじまれり 後藤兼志」(季語:枯る 冬) 

俳句結社誌『鴻』2022年6月号 
連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2022.06.13
映画『杜人』 前田せつ子・監督 

映画『杜人』 前田せつ子・監督   
『杜人(もりびと)』の主人公・矢野智徳は1956年、北九州市生まれ。父の始めた花木植物園「四季の丘」で十人兄弟とともに植物の世話をして育つ。東京都立大学で自然地理を専攻し、在学中に一年間休学して日本一周を敢行。各地の自然環境を見聞して周る。阪神大震災で被害を受けた庭園の樹勢回復作業を行なう中で、環境改善施工の新たな手法に取り組み始め、現在に至っている。本作はそうした矢野の活動を追ったドキュメンタリーだ。 
映画は屋久島の浜辺から始まる。生態系連鎖として人間が行なっている開発の影響で、皮肉なことにガジュマルの木は弱って葉を落としていた。「ガジュマルに向かって動く空気流を、少し促すようにひらいていく」と言いながら矢野は、鎌で周囲の草を刈り、小さなスコップで土を掘る。すると滞っていた水が流れ始める。ボランティア・スタッフたちは驚きの声を上げ、矢野の作業に加わる。水は波紋を描きながら海へと流れるようになった。「これだけでガジュマルは息をし始める」。しばらくしてガジュマルは胴吹き始めたのだった。 
この魔法のようなオープニングで、一気に映画に引き込まれた。しかしこれは魔法ではない。矢野が経験と研究から得た方法の実践なのだ。以降、カメラは水捌けの悪い校庭から水害現場まで、精力的に飛び回る矢野を追う。雑草は敵ではなく、植生のいちばん下にありながら、高い樹木に至るまでの空気と水のバランスを保っていると矢野は説く。土砂崩れは大地の深呼吸だとも。土や草木、虫や蟹までもが地球のバランスを保つためにそれぞれの役割を果たしていることを、矢野は「空気流を促す」などの独特の言葉で語る。それは説明でも演説でもなく、一篇の詩のように響く。
「私は造園をやりながら、なぜ森や草原は管理をしないのに見事にきれいに風が通るのか、それをずうっと観察してきた」。風に揺れる木の枝の揺れの変わり目部分が剪定すべきポイントであり、草を刈るべき場所も風が教えてくれると語る。名付けて「風の草刈り」。映画の制作スーパーバイザーの纐纈あやは、こうした矢野の言葉について「私が知らないことではなく、忘れていたことのように思えた」とパンフレットに書いている。

「ほつほつと折れはじめたる蘆を刈る 後藤夜半」(季語:蘆刈り 秋) 
 矢野の「風の草刈り」と瓜二つではないか。枯れて折れ始めた蘆は「そろそろ刈ってくれ」と人間に催促している。蘆は次の世代のために場所を明け渡そうとし、人間は刈った蘆を簾(すだれ)や茅葺屋根に利用する。こうして里山は豊かな循環を保ってきた。
「刈るほどに山風のたつ晩稲かな 飯田蛇笏」(季語:晩稲 おくて 秋) 
「岩に手を触れて茸の季とおもふ 飯田龍太」(季語:茸 きのこ 秋)  
 親子して土着の精神を詠んだ二人の句は、矢野と同じ視点で自然を捉えている。「刈るほどに」は、稲を刈るから山風が吹くのか、山風が吹くから稲を刈るのか。田圃と山の結びつきの強さを、蛇笏は直感している。「岩に手を」は、手に触れた温度や湿度で茸の収穫期を覚るのが龍太の毎年の習いだった。甲斐の山中を拠点とした親子俳人の心根が快い。 

「水打てば夏蝶そこに生れけり 虚子」(季語:夏蝶 夏) 
「流れ行く大根の葉の早さかな 虚子」(季語:大根 冬) 
 山梨県上野原の水捌けの悪い農道に矢野は出向いた。例によって小さなスコップで溝を切ると、水が流れ出す。間もなくそこにトンボが飛んで来た。「動き出したら来るんだよ。アゲハチョウもトンボも」と矢野。「水打てば」の句は、暑さの折、人間が涼を求めて水を打つ。するとその場所に潜んでいた蝶が飛び立った。水によって蝶もトンボも人も命を吹き返したのだった。「流れ行く」は、上流で誰かが収穫したばかりの大根を洗っているのだろう。流れの速さが、里山の水路が健全に機能していることを表わしている。 
 
 「『杜』とは この場所を『傷めず 穢さず 大事に使わせてください』と人が森の神に誓って紐を張った場」だと矢野は言う。屋久島の浜辺であれ、山梨の山中であれ、『杜』は日本中に遍在してきた。矢野は環境再生医として、壊されてしまった杜を治す。しかし施主や集まってくるボランティア・スタッフたちに、環境問題の安易な解決方法を示そうとはしない。そしてカメラは、再生の過程と周辺の人々の喜びや哀しみを淡々と撮るだけだ。映画『杜人』は環境の危機を声高に訴えたりはしない。その代わりに、再生した杜の美しさを丁寧に映しだす。心に何が残るのかは、観る人次第だ。
 ところでこの映画の監督・前田せつ子は、僕の古くからの友人である。音楽雑誌や映画雑誌の編集を経て、フリーランスとして『いのちと味覚』(辰巳芳子・著)や『フジコ・ヘミング 14歳の夏休み絵日記』の編集を手掛けた。矢野とは彼女が住む国立市の街路樹伐採計画をキッカケに、14年に出会った。18年3月にムービー制作ワークショップを受講し、その年の5月から『杜人』の撮影を開始したというから、その行動力には恐れ入る。初の長編映画となる本作では監督の他、制作、撮影、編集を担当。そのパワーと志にエールを贈りたい。『杜人』は公開されるやいなや全国で上映が次々と決定しているので、ぜひ観てほしい。
「揺れ足りしものより枯れのはじまれり 後藤兼志」(季語:枯る 冬) 

俳句結社誌『鴻』2022年6月号 
連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店