HAIKU

2022.05.03
『のんのんばあとオレ』水木しげる・著 ちくま文庫・刊  

『のんのんばあとオレ』水木しげる・著 ちくま文庫・刊  
コロナ禍に見舞われて以来、丸2年が過ぎた。マスクと自粛の日々に慣れたとはいえ、決して楽しいものではなく、いつの間にか鬱々としている自分に気付いて気持ちを立て直すことが多くなった。そんな中、ロシアがウクライナに攻め入った。野蛮な手口は二十世紀の侵略戦争を彷彿とさせるもので、「この時代にこんなことが現実に起こるのか」と胸が悪くなった。僕が学生時代を過ごした東京・国立(くにたち)の街には50年以上前からロシア料理屋があったし、ウクライナの方も今は多数日本で暮らしている。僕にとって身近に感じられる両国の人々の不幸に、本当に心が痛む毎日だ。これほどの悪意に接していると、気持ちのバランスが崩れそうになる。そんなある日、読み返したくなったのが『のんのんばあとオレ』だった。

著者の水木しげるは『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる漫画家で、『のんのんばあとオレ』は水木が自らの少年時代を著したエッセイである。妖怪に詳しい水木は、自然と人間にまつわるユニークな漫画をたくさん描いた。一方で水木は太平洋戦争で激戦地ラバウルに送り込まれ、左腕を失いながらも九死に一生を得た過酷な体験を、妖怪漫画と同じくらい熱心に戦記漫画として描いている。その筆には亡くなった戦友たちへの鎮魂の思いが込められている。
1922年に大阪で生まれた水木は、鳥取県境港市で育った。境港あたりでは神仏に仕えたりする人を「のんのんさん」と呼び、水木の実家にも近所に住むおばあさん=「のんのんばあ」が出入りしていた。貧しいのんのんばあは、水木家の手伝いをすることでいくばくかの施しを受けていた。好奇心旺盛な水木は、彼女から身の回りにいる妖怪たちをたくさん教えてもらう。台所の天井にシミがあればそれは「天井なめ」の仕業で、夜中に家がミシミシ鳴るのは「家(や)鳴り」が居るからだという話を、水木は素直に信じて聞いていた。
そんな豊かな感受性を持つ水木は、同時に地域のガキ大将を目指す乱暴者でもあった。近隣の子供たちとの喧嘩に明け暮れ、自己顕示欲を満たしていく。水木はガキ大将に関して独特の見解を持っていた。「オレの少年時代は、政治の世界でもヒットラーなんかの独裁政治だったし、子どもの世界でもガキ大将の独裁である。政治の世界の独裁は不満があるとむりやり押さえつけてしまうだけだが、子どもの世界の独裁は、独裁的にやりながら、どうじにみんなを喜ばせなければいけないからむずかしい」。
水木という一人の少年の中で、人智を超えた自然の力と人間の粗野な暴力が共存していたのが面白い。今回、この本が読みたくなったのは、この共存がポイントだった。僕はこの春、あまりにグロテスクな暴力を毎日テレビで見せつけられ、心が病みそうになっていたから、水木のおおらかな世界観に浸りたくなったのだ。水木自身はグロテスクな戦場の現実を知り尽くしていたので、幼少期の思い出のすべてを綺麗事で済まそうとはしない。だからこの時期、現実逃避に陥らず、自分の心を闇から守るのに『のんのんばあとオレ』は格好の読み物だった。

「繃帯を巻かれ巨大な兵となる 渡辺白泉」(季語:無し)
「戦争にたかる無数の蠅しづか 三橋敏雄」(季語:蠅 夏)
「戦争が廊下の奥に立つてゐた」で有名な白泉の句は、戦争をファンタジーめかして描いていても、背後にある恐ろしい事実から目を逸らさない。敏雄の句は抽象的な「戦争」と具体的な「蠅」の冷静な対比から反戦を呼びかける。ただ両句とも優れてはいるが、今の僕にはあまりピンと来なかった。もしかすると今回の侵攻に関する報道映像があまりにもリアルなので、何かが麻痺させられているのかもしれない。

「属国日本の流し素麺てふ技術 北大路翼」(季語:冷素麺 夏) 
「虫籠は死んだら次の虫が来る 翼」(季語:虫籠 秋)  
これらは戦争とは異なる文脈で詠まれた句だが、なぜか現状に添っているように感じられる。世界唯一の被爆国でありながら、核の脅威に対する批判の先頭に立つことはせず、他国の出方を伺うだけの為政者は「流し素麺」のようだ。また虫ケラのように戦場に晒されているウクライナとロシアの市民は、嘆きの声を途切れることなく上げ続けることだろう。

『のんのんばあとオレ』の最後で、水木はこう述べる。「少年時代の私は強く勇ましいことが好きで戦争ごっこもよくやったが、じっさいの戦争はちっともたのしくなかった。(中略)少年時代は大将だったが、じっさいの戦争は二等兵だった。ガキ大将は部下をたのしく遊ばせるのだが、戦争ではいじめられるばかりだった。戦争ごっこの経験が役だったことといえば、逃げるときの要領ぐらいなものだろう」。

自然が大好きだった水木は、戦地で見張りをしていても熱帯の美しい景色に見とれてしまう。そんな感性の源になっているのは、のんのんばあに教えられた超自然の力に対する憧れと信頼だ。水木の内にある妖怪という善悪を越えた存在が、人間同士の争いの空虚さを丸ごと呑み込んでいく。そのタフでユーモラスな世界観に、再読した僕は救われたのだった。なにとぞ世界に平和を! 
「ワカサギの世界を抜ける穴一つ 翼」(季語:わかさぎ 春) 

                 俳句結社誌『鴻』2022年5月号 
                 連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2022.05.03
『のんのんばあとオレ』水木しげる・著 ちくま文庫・刊  

『のんのんばあとオレ』水木しげる・著 ちくま文庫・刊  
コロナ禍に見舞われて以来、丸2年が過ぎた。マスクと自粛の日々に慣れたとはいえ、決して楽しいものではなく、いつの間にか鬱々としている自分に気付いて気持ちを立て直すことが多くなった。そんな中、ロシアがウクライナに攻め入った。野蛮な手口は二十世紀の侵略戦争を彷彿とさせるもので、「この時代にこんなことが現実に起こるのか」と胸が悪くなった。僕が学生時代を過ごした東京・国立(くにたち)の街には50年以上前からロシア料理屋があったし、ウクライナの方も今は多数日本で暮らしている。僕にとって身近に感じられる両国の人々の不幸に、本当に心が痛む毎日だ。これほどの悪意に接していると、気持ちのバランスが崩れそうになる。そんなある日、読み返したくなったのが『のんのんばあとオレ』だった。

著者の水木しげるは『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる漫画家で、『のんのんばあとオレ』は水木が自らの少年時代を著したエッセイである。妖怪に詳しい水木は、自然と人間にまつわるユニークな漫画をたくさん描いた。一方で水木は太平洋戦争で激戦地ラバウルに送り込まれ、左腕を失いながらも九死に一生を得た過酷な体験を、妖怪漫画と同じくらい熱心に戦記漫画として描いている。その筆には亡くなった戦友たちへの鎮魂の思いが込められている。
1922年に大阪で生まれた水木は、鳥取県境港市で育った。境港あたりでは神仏に仕えたりする人を「のんのんさん」と呼び、水木の実家にも近所に住むおばあさん=「のんのんばあ」が出入りしていた。貧しいのんのんばあは、水木家の手伝いをすることでいくばくかの施しを受けていた。好奇心旺盛な水木は、彼女から身の回りにいる妖怪たちをたくさん教えてもらう。台所の天井にシミがあればそれは「天井なめ」の仕業で、夜中に家がミシミシ鳴るのは「家(や)鳴り」が居るからだという話を、水木は素直に信じて聞いていた。
そんな豊かな感受性を持つ水木は、同時に地域のガキ大将を目指す乱暴者でもあった。近隣の子供たちとの喧嘩に明け暮れ、自己顕示欲を満たしていく。水木はガキ大将に関して独特の見解を持っていた。「オレの少年時代は、政治の世界でもヒットラーなんかの独裁政治だったし、子どもの世界でもガキ大将の独裁である。政治の世界の独裁は不満があるとむりやり押さえつけてしまうだけだが、子どもの世界の独裁は、独裁的にやりながら、どうじにみんなを喜ばせなければいけないからむずかしい」。
水木という一人の少年の中で、人智を超えた自然の力と人間の粗野な暴力が共存していたのが面白い。今回、この本が読みたくなったのは、この共存がポイントだった。僕はこの春、あまりにグロテスクな暴力を毎日テレビで見せつけられ、心が病みそうになっていたから、水木のおおらかな世界観に浸りたくなったのだ。水木自身はグロテスクな戦場の現実を知り尽くしていたので、幼少期の思い出のすべてを綺麗事で済まそうとはしない。だからこの時期、現実逃避に陥らず、自分の心を闇から守るのに『のんのんばあとオレ』は格好の読み物だった。

「繃帯を巻かれ巨大な兵となる 渡辺白泉」(季語:無し)
「戦争にたかる無数の蠅しづか 三橋敏雄」(季語:蠅 夏)
「戦争が廊下の奥に立つてゐた」で有名な白泉の句は、戦争をファンタジーめかして描いていても、背後にある恐ろしい事実から目を逸らさない。敏雄の句は抽象的な「戦争」と具体的な「蠅」の冷静な対比から反戦を呼びかける。ただ両句とも優れてはいるが、今の僕にはあまりピンと来なかった。もしかすると今回の侵攻に関する報道映像があまりにもリアルなので、何かが麻痺させられているのかもしれない。

「属国日本の流し素麺てふ技術 北大路翼」(季語:冷素麺 夏) 
「虫籠は死んだら次の虫が来る 翼」(季語:虫籠 秋)  
これらは戦争とは異なる文脈で詠まれた句だが、なぜか現状に添っているように感じられる。世界唯一の被爆国でありながら、核の脅威に対する批判の先頭に立つことはせず、他国の出方を伺うだけの為政者は「流し素麺」のようだ。また虫ケラのように戦場に晒されているウクライナとロシアの市民は、嘆きの声を途切れることなく上げ続けることだろう。

『のんのんばあとオレ』の最後で、水木はこう述べる。「少年時代の私は強く勇ましいことが好きで戦争ごっこもよくやったが、じっさいの戦争はちっともたのしくなかった。(中略)少年時代は大将だったが、じっさいの戦争は二等兵だった。ガキ大将は部下をたのしく遊ばせるのだが、戦争ではいじめられるばかりだった。戦争ごっこの経験が役だったことといえば、逃げるときの要領ぐらいなものだろう」。

自然が大好きだった水木は、戦地で見張りをしていても熱帯の美しい景色に見とれてしまう。そんな感性の源になっているのは、のんのんばあに教えられた超自然の力に対する憧れと信頼だ。水木の内にある妖怪という善悪を越えた存在が、人間同士の争いの空虚さを丸ごと呑み込んでいく。そのタフでユーモラスな世界観に、再読した僕は救われたのだった。なにとぞ世界に平和を! 
「ワカサギの世界を抜ける穴一つ 翼」(季語:わかさぎ 春) 

                 俳句結社誌『鴻』2022年5月号 
                 連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店