HAIKU

2021.08.01
『芸人と俳人』 又吉直樹 堀本裕樹・著 集英社文庫・刊 

『芸人と俳人』 又吉直樹 堀本裕樹・著 集英社文庫・刊 
 人気テレビ番組『プレバト!!』(毎日放送系)を毎週、楽しんでいる俳人の方は(もちろん一般の方も)多いだろう。俳句コーナーでは出題される一枚の写真をテーマに、各界の芸能人が一句を詠み、それを宗匠の夏井いつきがランク付けして鑑賞と添削を行なう。永世名人の梅沢富美男を筆頭に、アイドルや俳優などが句の出来を競う。中でハッとさせられることの多いのが「お笑い芸人の句」だ。フルーツポンチ・村上健志の「双六の駒にポン酢の蓋のあり」や、FUJIWARA・藤本敏史の「流星群いくつか海に堕ちて海胆」など、ユニークな発想が楽しい。ではなぜ芸人の句が楽しいのか。
芸人はしゃべりで人を笑わせるのが仕事なので、人を笑わせるための仕掛け=ネタを常に探している。そのネタの面白さを客に確実に伝えることが重要なので、わかりやすい言葉を遣うことをいつも心掛けている。「人の心を動かす仕掛け」と「平明な言葉」が大事とは、まるで俳句と同じではないか。それで芸人の作る句に面白いものが多いのではないかと思い当たった。
また吉田鴻司師がよく「俳句は文学ではなく、文芸だ」とおっしゃっていたことも思い出した。自己主張することに重きを置く文学ではなく、俳句は読み手のことを考えて表現する“芸”なのだ。今回、紹介する『芸人と俳人』はまさにそのことを対談形式で読ませてくれる一冊だ。

共著者の一人、お笑いコンビ“ピース”の又吉直樹は、小説『火花』で芥川賞を受賞。堀本裕樹は俳句結社「蒼海」主宰で、著書の青春小説『桜木杏、俳句はじめてみました』が広瀬すずを主演にしてテレビドラマ化された。つまり『芸人と俳人』の両著者は、芸人と俳人でありながら他の表現手段にも優れているので、彼らの対談は俳句についてのユニークな分析になっている。
当初、又吉は俳句に惹かれながらも恐ろしく思っていたという。特に「定形」、「季語」という縛りの中に身を置くと、自由な発想を失い類型に陥るのではと心配し、最初は自由律俳句を作っていた。しかし意を決して堀本に教えを乞う。本書はそこから始まる。 

 又吉は前書きで「(他人の句が)難しくて解らないことが恐ろしかった」と告白する。ある句について自分なりの鑑賞を披露した時、俳句に詳しい人から「お前の解釈、めっちゃダサいやん!」と言われたら傷ついてしまうだろうという恐怖。これは誰しもが俳句を始める際に抱く心理だ。対して堀本は、又吉の作った「蟬の羽に名前を書いて空に放した」という自由律句を挙げて、「自分の心を解き放ちたいという気持ちを読み取って、寂しさというかせつなさを感じました」と歩み寄る。
 又吉は「渡り鳥みるみるわれの小さくなり 上田五千石」の句に感じるものがあったのだが、それが何故なのか、今ひとつ分からないでいた。そこへ堀本の「視点が変わるところがおもしろい」という解説を得て、「自分が今どこにいるのかわからなくなるような作品」が好きなのだと得心する。その他、多くの名句を通して、芸人と俳人は次第に近づいていく。

 なるほどと思ったのは、「あるあるネタ」の話題だった。堀本が「ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに 森澄雄」を例にして俳句の直喩の話をすると、又吉はお笑いの「あるある」がこれに似ているかもしれないと反応。たとえばその昔、桂文枝が言った「校庭に犬が入ってきたらクラスが盛り上がる」という言葉のように、この澄雄の句は誰もが「それ、あるある」と笑顔で共感するネタと同じなのだと述べる。確かに牡丹が揺れる様は、湯気のように感じられる。ただし、最初に誰かが発見した瞬間は素敵な「あるある」でも、それが定番化されてしまったらもう素敵ではなくなってしまう。
又吉は「俳句の中でどの直喩が使い古されているのかわからない人間からしたら、直喩は避けておきたいです」と笑う。揺れる牡丹を「湯」に例える比喩が使い古されているのかどうか、俳句部外者の自分にはわからないと言うのだ。こうして又吉の抱いていた「俳句の怖い部分」の正体が明らかになっていく。これはモノを書く者として至極まっとうな恐怖の感覚で、そこに気付いた堀本は「お仕事であるお笑いを通して、そこまで俳句の本質に近づいている又吉さんなら、定型句は恐るるに足らずですよ」と励ます。新年に又吉が自由律で「父の足裏に福笑いの目」と詠めば、堀本が「コント見てころころ笑ふ春着の子」と応じる。二人の距離はどんどん近づいていく。

 ついに又吉はいちばん恐れていた「句会」に参加することになった。進行役を堀本が務め、メンバーは歌人の穂村弘やコメンテイターの中江有里らだ。その句会で又吉の「静寂は爆音である花吹雪」の句が最高点を獲得。穂村の「芭蕉の『閑さや岩にしみ入る蟬の声』の反転では?」という選評が良い。しかも「静寂」の句は見事に五七五の有季定型(注:季語の入った五七五)になっていた。こうして又吉は「俳句の呪い」から解放されたのだった。その他、又吉と堀本が有名俳人の句集を読み解く章など、読み応え十分。本書は新たな気持ちで俳句に向かい合う契機になるかもしれない。
「春の夢だあれもマスクしてをらず 石田蓉子」

  俳句結社誌『鴻』連載コラム「ON THE STREET」
2021年8月号より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2021.08.01
『芸人と俳人』 又吉直樹 堀本裕樹・著 集英社文庫・刊 

『芸人と俳人』 又吉直樹 堀本裕樹・著 集英社文庫・刊 
 人気テレビ番組『プレバト!!』(毎日放送系)を毎週、楽しんでいる俳人の方は(もちろん一般の方も)多いだろう。俳句コーナーでは出題される一枚の写真をテーマに、各界の芸能人が一句を詠み、それを宗匠の夏井いつきがランク付けして鑑賞と添削を行なう。永世名人の梅沢富美男を筆頭に、アイドルや俳優などが句の出来を競う。中でハッとさせられることの多いのが「お笑い芸人の句」だ。フルーツポンチ・村上健志の「双六の駒にポン酢の蓋のあり」や、FUJIWARA・藤本敏史の「流星群いくつか海に堕ちて海胆」など、ユニークな発想が楽しい。ではなぜ芸人の句が楽しいのか。
芸人はしゃべりで人を笑わせるのが仕事なので、人を笑わせるための仕掛け=ネタを常に探している。そのネタの面白さを客に確実に伝えることが重要なので、わかりやすい言葉を遣うことをいつも心掛けている。「人の心を動かす仕掛け」と「平明な言葉」が大事とは、まるで俳句と同じではないか。それで芸人の作る句に面白いものが多いのではないかと思い当たった。
また吉田鴻司師がよく「俳句は文学ではなく、文芸だ」とおっしゃっていたことも思い出した。自己主張することに重きを置く文学ではなく、俳句は読み手のことを考えて表現する“芸”なのだ。今回、紹介する『芸人と俳人』はまさにそのことを対談形式で読ませてくれる一冊だ。

共著者の一人、お笑いコンビ“ピース”の又吉直樹は、小説『火花』で芥川賞を受賞。堀本裕樹は俳句結社「蒼海」主宰で、著書の青春小説『桜木杏、俳句はじめてみました』が広瀬すずを主演にしてテレビドラマ化された。つまり『芸人と俳人』の両著者は、芸人と俳人でありながら他の表現手段にも優れているので、彼らの対談は俳句についてのユニークな分析になっている。
当初、又吉は俳句に惹かれながらも恐ろしく思っていたという。特に「定形」、「季語」という縛りの中に身を置くと、自由な発想を失い類型に陥るのではと心配し、最初は自由律俳句を作っていた。しかし意を決して堀本に教えを乞う。本書はそこから始まる。 

 又吉は前書きで「(他人の句が)難しくて解らないことが恐ろしかった」と告白する。ある句について自分なりの鑑賞を披露した時、俳句に詳しい人から「お前の解釈、めっちゃダサいやん!」と言われたら傷ついてしまうだろうという恐怖。これは誰しもが俳句を始める際に抱く心理だ。対して堀本は、又吉の作った「蟬の羽に名前を書いて空に放した」という自由律句を挙げて、「自分の心を解き放ちたいという気持ちを読み取って、寂しさというかせつなさを感じました」と歩み寄る。
 又吉は「渡り鳥みるみるわれの小さくなり 上田五千石」の句に感じるものがあったのだが、それが何故なのか、今ひとつ分からないでいた。そこへ堀本の「視点が変わるところがおもしろい」という解説を得て、「自分が今どこにいるのかわからなくなるような作品」が好きなのだと得心する。その他、多くの名句を通して、芸人と俳人は次第に近づいていく。

 なるほどと思ったのは、「あるあるネタ」の話題だった。堀本が「ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに 森澄雄」を例にして俳句の直喩の話をすると、又吉はお笑いの「あるある」がこれに似ているかもしれないと反応。たとえばその昔、桂文枝が言った「校庭に犬が入ってきたらクラスが盛り上がる」という言葉のように、この澄雄の句は誰もが「それ、あるある」と笑顔で共感するネタと同じなのだと述べる。確かに牡丹が揺れる様は、湯気のように感じられる。ただし、最初に誰かが発見した瞬間は素敵な「あるある」でも、それが定番化されてしまったらもう素敵ではなくなってしまう。
又吉は「俳句の中でどの直喩が使い古されているのかわからない人間からしたら、直喩は避けておきたいです」と笑う。揺れる牡丹を「湯」に例える比喩が使い古されているのかどうか、俳句部外者の自分にはわからないと言うのだ。こうして又吉の抱いていた「俳句の怖い部分」の正体が明らかになっていく。これはモノを書く者として至極まっとうな恐怖の感覚で、そこに気付いた堀本は「お仕事であるお笑いを通して、そこまで俳句の本質に近づいている又吉さんなら、定型句は恐るるに足らずですよ」と励ます。新年に又吉が自由律で「父の足裏に福笑いの目」と詠めば、堀本が「コント見てころころ笑ふ春着の子」と応じる。二人の距離はどんどん近づいていく。

 ついに又吉はいちばん恐れていた「句会」に参加することになった。進行役を堀本が務め、メンバーは歌人の穂村弘やコメンテイターの中江有里らだ。その句会で又吉の「静寂は爆音である花吹雪」の句が最高点を獲得。穂村の「芭蕉の『閑さや岩にしみ入る蟬の声』の反転では?」という選評が良い。しかも「静寂」の句は見事に五七五の有季定型(注:季語の入った五七五)になっていた。こうして又吉は「俳句の呪い」から解放されたのだった。その他、又吉と堀本が有名俳人の句集を読み解く章など、読み応え十分。本書は新たな気持ちで俳句に向かい合う契機になるかもしれない。
「春の夢だあれもマスクしてをらず 石田蓉子」

  俳句結社誌『鴻』連載コラム「ON THE STREET」
2021年8月号より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店