HAIKU

2020.11.04
『加藤楸邨の百句』 北大路翼・著 ふらんす堂・刊 

『加藤楸邨の百句』 北大路翼・著 ふらんす堂・刊 
滅法、面白いアンソロジー(撰集)だ。
加藤楸邨(かとう・しゅうそん 1905年~1993年)の俳人としての存在感は今も絶大で、師系に挙げる人も多い。このコラムでも二年前に今井聖氏の著書『言葉となればもう古し-加藤楸邨論-』(俳人協会評論賞)を取り上げた。現在も楸邨を巡る企画は多数あると推測されるが、『加藤楸邨の百句』もその一つだろう。聖氏は「楸邨の最後の弟子」を称されているが、翼はその弟子なので、孫弟子に当たる。その翼に『加藤楸邨の百句』の執筆者として白羽の矢が立った。楸邨の死後、三十年近く経ったことを考えると、この起用は非常に興味深い。そして狙いは的中。一句目から百句目まで、息をもつかせぬ面白さで一気に読める一冊となった。
「病める蚕を見つつすべなし夜の暴風雨」(季語:蚕 春)
 年代を追って並べられた百句の冒頭を飾るのは、この句だ。この句に対して翼は「くどい!」「ドラマの作り過ぎ」と断じながらも、それが楸邨だと主張する。さらには中七の「見つつすべなし」のねっとりとした諦念を「オリジナル」だと評する。
 これは通常のアンソロジーではない。なぜなら傑作と呼ばれる句を集めて、その詩心や技術の高さを褒めようとはしていないからだ。翼はただただオリジナリティに焦点を絞り、楸邨が実現しようとした“俳句”に迫っていく。
 翼は後書きに「楸邨の句は難解だと言はれることが多い」と書いている。さらに「難解さとは句意のわかりづらさではない。いはゆる俳句的情緒、俳句的手法からの距離感が難解だと呼ばれてしまふ」と述べる。
実は僕も楸邨の句に違和感を覚えることが多い。字余りだらけだし、翼と同じく「くどい!」と感じる句が多いからだ。「蚕」の句にしても、「すべなし」と言いながら「暴風雨」とまで叙している。故・吉田鴻司師から「俳句で余計なことは何も言うな」と教えられてきた身には、ありえない句の造りだ。すなわち、楸邨と自分とでは俳句的手法がかけ離れている。また老いや病など従来の俳人が好んで詠おうとした俳句的情緒からも、楸邨の句は距離を取る。
字余りにする必要があるのか? なぜ意外な題材を選ぶのか? 翼は典型として次の句を挙げる。
「鶏の一歩が蟻の五百歩パン屑まで」(季語:蟻 夏) 
 明らかに失敗作。しかし翼は「ここまでどうでもいいことをよくぞ発見したと思ふ」と書く。リアリズムの句と捉えると失敗に思えるが、ナンセンスの句と思えば愛唱したくなると言う。リアリズムの延長上にナンセンスがあるのが楸邨らしいのだと。
 また、翼は“先輩”の使い方が上手い。
「鰯雲人に告ぐべきことならず」 (季語:鰯雲 秋)
この有名な句について、翼は結社『寒雷』の先輩・宮崎筑子から話を聞く。教師だった楸邨が、多くの生徒を戦争に送り出したことを悔いて作った句であるらしいと聞いた。もし翼が直接、楸邨に問いただしたとしたら、別の自解になっていたかもしれない。しかし楸邨と同じ時代を生きた先輩の発言とすることで、楸邨の自責の念は担保される。そうして翼はこの句の覚悟に素直に感動し、その感動を『加藤楸邨の百句』を読んでいる人と分け合うことができるのだった。

選んだ句と対決しながら、どう自分を出すのか。そのバランスがいい。自分の立つところを明らかにした上で、翼は自分が名句と思う句を挙げる。
「生きてあれ冬の北斗の柄の下に」(季語:冬北斗 冬) 
 これもまた遠い戦地に思いを馳せて詠んだ句だ。翼は同じ作家として、こんなにも激しい感情が俳句になることが嬉しいと率直に感想を述べている。  
「春休みの運動場を鵜があるく」(季語:春休み 春) 
 一方で、この気の抜けた句はどうだ。翼は「あまりに平凡で誰もが百句には選ばない」と評する。おそらくその通りだろう。しかし翼はこの句を選び、暴力的なまでに牧歌的なこの句の中で、読者がそれぞれの鵜を遊ばせて欲しいと願う。

「湾の底より釣られ冬魚の大きな息」(季語:冬魚 冬) 
 この奇怪な句には、「安藤一郎氏の詩集『遠い旅』読後」という前詞が添えられている。冬魚はきっと鮟鱇か何かだろう。グロテスクで迫力に満ちた詩集であったに違いない。「湾の底」の広さ、深さはそのまま詩の世界。そこから釣り上げられたモノが作品だとする楸邨の美意識を、翼は直感する。これぞ翼が本書で繰り返し述懐する、楸邨ならではの俳句的情緒や俳句的手法が結晶した名句の姿なのだ。

「山ざくら石の寂しさ極まりぬ」(季語:山桜 春) 
 通常の俳句的情緒や俳句的手法から離れようとする楸邨だが、それを極めようとすればするほど、たとえば芭蕉の「石山の石より白し秋の風」の枯淡に近づくような気がする。しかしこの句を深く味わうと、それは枯れることでもなく、淡くなることでもないことに気付く。「“石”の真の寂しさに辿りつけるのは楸邨とつげ義春ぐらゐだらう」と翼は言う。つげはシュールな作風で知られる漫画家で、彼の描く世界は確かに寂しいが、妙に生命力がある。実に鋭い指摘だ。

 ひとつ世代を隔てた俳句作家の著すこのアンソロジーの醍醐味を、ぜひ堪能してみてほしいと思う。
「悲しさの極みに誰か枯木折る 誓子」(季語:枯木 冬) 

俳句結社誌『鴻』連載コラム「ON THE STREET」
2020年11月号より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2020.11.04
『加藤楸邨の百句』 北大路翼・著 ふらんす堂・刊 

『加藤楸邨の百句』 北大路翼・著 ふらんす堂・刊 
滅法、面白いアンソロジー(撰集)だ。
加藤楸邨(かとう・しゅうそん 1905年~1993年)の俳人としての存在感は今も絶大で、師系に挙げる人も多い。このコラムでも二年前に今井聖氏の著書『言葉となればもう古し-加藤楸邨論-』(俳人協会評論賞)を取り上げた。現在も楸邨を巡る企画は多数あると推測されるが、『加藤楸邨の百句』もその一つだろう。聖氏は「楸邨の最後の弟子」を称されているが、翼はその弟子なので、孫弟子に当たる。その翼に『加藤楸邨の百句』の執筆者として白羽の矢が立った。楸邨の死後、三十年近く経ったことを考えると、この起用は非常に興味深い。そして狙いは的中。一句目から百句目まで、息をもつかせぬ面白さで一気に読める一冊となった。
「病める蚕を見つつすべなし夜の暴風雨」(季語:蚕 春)
 年代を追って並べられた百句の冒頭を飾るのは、この句だ。この句に対して翼は「くどい!」「ドラマの作り過ぎ」と断じながらも、それが楸邨だと主張する。さらには中七の「見つつすべなし」のねっとりとした諦念を「オリジナル」だと評する。
 これは通常のアンソロジーではない。なぜなら傑作と呼ばれる句を集めて、その詩心や技術の高さを褒めようとはしていないからだ。翼はただただオリジナリティに焦点を絞り、楸邨が実現しようとした“俳句”に迫っていく。
 翼は後書きに「楸邨の句は難解だと言はれることが多い」と書いている。さらに「難解さとは句意のわかりづらさではない。いはゆる俳句的情緒、俳句的手法からの距離感が難解だと呼ばれてしまふ」と述べる。
実は僕も楸邨の句に違和感を覚えることが多い。字余りだらけだし、翼と同じく「くどい!」と感じる句が多いからだ。「蚕」の句にしても、「すべなし」と言いながら「暴風雨」とまで叙している。故・吉田鴻司師から「俳句で余計なことは何も言うな」と教えられてきた身には、ありえない句の造りだ。すなわち、楸邨と自分とでは俳句的手法がかけ離れている。また老いや病など従来の俳人が好んで詠おうとした俳句的情緒からも、楸邨の句は距離を取る。
字余りにする必要があるのか? なぜ意外な題材を選ぶのか? 翼は典型として次の句を挙げる。
「鶏の一歩が蟻の五百歩パン屑まで」(季語:蟻 夏) 
 明らかに失敗作。しかし翼は「ここまでどうでもいいことをよくぞ発見したと思ふ」と書く。リアリズムの句と捉えると失敗に思えるが、ナンセンスの句と思えば愛唱したくなると言う。リアリズムの延長上にナンセンスがあるのが楸邨らしいのだと。
 また、翼は“先輩”の使い方が上手い。
「鰯雲人に告ぐべきことならず」 (季語:鰯雲 秋)
この有名な句について、翼は結社『寒雷』の先輩・宮崎筑子から話を聞く。教師だった楸邨が、多くの生徒を戦争に送り出したことを悔いて作った句であるらしいと聞いた。もし翼が直接、楸邨に問いただしたとしたら、別の自解になっていたかもしれない。しかし楸邨と同じ時代を生きた先輩の発言とすることで、楸邨の自責の念は担保される。そうして翼はこの句の覚悟に素直に感動し、その感動を『加藤楸邨の百句』を読んでいる人と分け合うことができるのだった。

選んだ句と対決しながら、どう自分を出すのか。そのバランスがいい。自分の立つところを明らかにした上で、翼は自分が名句と思う句を挙げる。
「生きてあれ冬の北斗の柄の下に」(季語:冬北斗 冬) 
 これもまた遠い戦地に思いを馳せて詠んだ句だ。翼は同じ作家として、こんなにも激しい感情が俳句になることが嬉しいと率直に感想を述べている。  
「春休みの運動場を鵜があるく」(季語:春休み 春) 
 一方で、この気の抜けた句はどうだ。翼は「あまりに平凡で誰もが百句には選ばない」と評する。おそらくその通りだろう。しかし翼はこの句を選び、暴力的なまでに牧歌的なこの句の中で、読者がそれぞれの鵜を遊ばせて欲しいと願う。

「湾の底より釣られ冬魚の大きな息」(季語:冬魚 冬) 
 この奇怪な句には、「安藤一郎氏の詩集『遠い旅』読後」という前詞が添えられている。冬魚はきっと鮟鱇か何かだろう。グロテスクで迫力に満ちた詩集であったに違いない。「湾の底」の広さ、深さはそのまま詩の世界。そこから釣り上げられたモノが作品だとする楸邨の美意識を、翼は直感する。これぞ翼が本書で繰り返し述懐する、楸邨ならではの俳句的情緒や俳句的手法が結晶した名句の姿なのだ。

「山ざくら石の寂しさ極まりぬ」(季語:山桜 春) 
 通常の俳句的情緒や俳句的手法から離れようとする楸邨だが、それを極めようとすればするほど、たとえば芭蕉の「石山の石より白し秋の風」の枯淡に近づくような気がする。しかしこの句を深く味わうと、それは枯れることでもなく、淡くなることでもないことに気付く。「“石”の真の寂しさに辿りつけるのは楸邨とつげ義春ぐらゐだらう」と翼は言う。つげはシュールな作風で知られる漫画家で、彼の描く世界は確かに寂しいが、妙に生命力がある。実に鋭い指摘だ。

 ひとつ世代を隔てた俳句作家の著すこのアンソロジーの醍醐味を、ぜひ堪能してみてほしいと思う。
「悲しさの極みに誰か枯木折る 誓子」(季語:枯木 冬) 

俳句結社誌『鴻』連載コラム「ON THE STREET」
2020年11月号より加筆・転載

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著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店