HAIKU

2020.10.04
『翻訳できない世界のことば』 エラ・フランシス・サンダース・著 前田まゆみ・訳 創元社・刊

『翻訳できない世界のことば』 エラ・フランシス・サンダース・著 前田まゆみ・訳 創元社・刊

 『翻訳できない世界のことば』は絵本のような装丁のハードカバーだ。各見開きが一つの単語と短い文章、大判のイラストで構成されていて、体裁は絵本に近い。その「単語」とは、タイトルにあるように世界中の言語から厳選された印象的なものばかりで、単語のイメージに合わせたイラストとともに楽しめるユニークな一冊となっている。
 今、世界で使われている言語には、いろいろなタイプがある。それぞれの国の風土に深く根差して生まれた言語は、当然、そこに暮らす人々の考え方を大いに反映する。たとえばイギリスの英語がそうした傾向を持っている一方で、多くの人種が共存するアメリカの英語は、使い勝手が良いように変化してきた。たとえば「OUT(アウト)」という単語は、「外に出る」という本来の意味から派生して、「時間がなくなる」「ガソリンが切れる」「電気製品が故障した」などの状態を指したりする。一語にいろんな意味を持たせることで、移民の人々が少ない単語で生活できるように図られてきたのだ。
 今回、紹介する『翻訳できない世界のことば』は、アメリカ英語とは真逆の言葉を収集した本だ。民族独特の考えをたった一語にぎゅっと詰め込んだ名詞や形容詞は、まさにその土地の住人たちの生活実感と思考の結晶で、他の言語に翻訳することは難しい。
 たとえばカナダ北部に住む民族“イヌイット”の「イクトゥアルポク」という言葉は、たった一語で「誰か来るのではないかと期待して、何度も何度も外に出てみること」を表わす。最果ての地に暮らす人間の“人恋しさ”が込められた切ない言葉だ。イヌイットの住むイグルー(雪の家)を描いたイラストが添えられていて、味わい深い。
インドの古代語であるサンスクリット語の「カルパ」は、「宇宙的なスケールで、時が過ぎていくこと」を表わす名詞。日本の仏教経典はサンスクリット語の音を漢字に当てて書かれているが、「カルパ」には「永劫」など、長い時間を意味する「劫」の字が当てられる。
「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの 虚子」(季語:去年今年 新年)は時間の観念を表現した句として有名だが、虚子が詠っているのは「カルパ」にかなり近いニュアンスを含んでいることに驚く。俳句は短詩なので、中身の詰まった言葉を選ぶことが重要だが、「翻訳できないことば」を内包するのは名句の条件の一つなのかもしれない。
ドイツ語の「ヴァルトアインザームカイト」は、「森の中で一人、自然と交流するときのゆったりとした孤独感」を表わす。カントやフロイト、ハイデガーなど多くの哲学者を生んだドイツらしい言葉だ。壮大な自然の前で感じる清々しい孤独は、「滝落ちて群青世界とどろけり 秋桜子」(季語:滝 夏)の景に通じている。
ウェールズ語の「ヒラエス」は、「帰ることができない場所、失った場所や永遠に存在しない場所への郷愁と哀切の気持ち」を意味する。戦争で故郷が破壊されたり、飢饉などで住んでいた土地を去らざるをえなかった民族的経験が生んだ言葉だろう。
「夕映やしじましじまを渡り鳥 長谷川櫂」(季語:渡り鳥 秋)
夕陽を受けて遠くにシルエットで浮かぶ渡り鳥の群を見るとき、その人の心はきっと「ヒラエス」と呼ばれるのだろう。「ヒラエス」は翻訳の難しい言葉だが、世界の多くの詩の源泉になっているものと同等だ。
この本には日本語もピックアップされている。「コモレビ=木洩れ日」は日本独特の自然描写の言葉だ。他の国にも似た景色はあるが、それを単語で表現するのは稀なことなのだ。また「ぼけっと」は、「何も考えないでいることに、名前を付けるほど大事にしているのは素敵だ」と解説されているのが面白い。中でも「ワビサビ=侘び寂び」に対する著者のコメントが秀逸で、「生と死の自然のサイクルを受け入れ、不完全さの中にある美を見出すこと」とあった。
たった一語に俳句のすべてが呑み込まれてしまうとは思わないが、一句で詠もうとしている心情、あるいはコンセプトが、他の国の言語では一つの独立した単語となってしまうくらい大切なものとして扱われている点が興味深い。「木洩れ日」と同様、日本には「雨」にまつわる単語が世界一たくさんあり、それらが俳句の成立にかなりの利便を与えている事実は見逃せない。
 この『翻訳できない世界のことば』は2014年に出版された。当時、著者のエラ・フランシス・サンダースは二十代のイラストレーターだった。彼女が豊かな感性で集めた世界の言葉とユーモラスなイラストを掲載したブログが注目を集め、それを一冊にまとめたのがこの本である。上梓されるとすぐにベストセラーになり、その後、続編の『誰も知らない世界のことわざ』も出版された。ちなみにこちらで紹介されている日本のことわざは、「サルも木から落ちる」である。
「稲妻に悟らぬ人の貴さよ 芭蕉」(季語:稲妻 秋)

俳句結社誌『鴻』2020年10月号 
連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2020.10.04
『翻訳できない世界のことば』 エラ・フランシス・サンダース・著 前田まゆみ・訳 創元社・刊

『翻訳できない世界のことば』 エラ・フランシス・サンダース・著 前田まゆみ・訳 創元社・刊

 『翻訳できない世界のことば』は絵本のような装丁のハードカバーだ。各見開きが一つの単語と短い文章、大判のイラストで構成されていて、体裁は絵本に近い。その「単語」とは、タイトルにあるように世界中の言語から厳選された印象的なものばかりで、単語のイメージに合わせたイラストとともに楽しめるユニークな一冊となっている。
 今、世界で使われている言語には、いろいろなタイプがある。それぞれの国の風土に深く根差して生まれた言語は、当然、そこに暮らす人々の考え方を大いに反映する。たとえばイギリスの英語がそうした傾向を持っている一方で、多くの人種が共存するアメリカの英語は、使い勝手が良いように変化してきた。たとえば「OUT(アウト)」という単語は、「外に出る」という本来の意味から派生して、「時間がなくなる」「ガソリンが切れる」「電気製品が故障した」などの状態を指したりする。一語にいろんな意味を持たせることで、移民の人々が少ない単語で生活できるように図られてきたのだ。
 今回、紹介する『翻訳できない世界のことば』は、アメリカ英語とは真逆の言葉を収集した本だ。民族独特の考えをたった一語にぎゅっと詰め込んだ名詞や形容詞は、まさにその土地の住人たちの生活実感と思考の結晶で、他の言語に翻訳することは難しい。
 たとえばカナダ北部に住む民族“イヌイット”の「イクトゥアルポク」という言葉は、たった一語で「誰か来るのではないかと期待して、何度も何度も外に出てみること」を表わす。最果ての地に暮らす人間の“人恋しさ”が込められた切ない言葉だ。イヌイットの住むイグルー(雪の家)を描いたイラストが添えられていて、味わい深い。
インドの古代語であるサンスクリット語の「カルパ」は、「宇宙的なスケールで、時が過ぎていくこと」を表わす名詞。日本の仏教経典はサンスクリット語の音を漢字に当てて書かれているが、「カルパ」には「永劫」など、長い時間を意味する「劫」の字が当てられる。
「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの 虚子」(季語:去年今年 新年)は時間の観念を表現した句として有名だが、虚子が詠っているのは「カルパ」にかなり近いニュアンスを含んでいることに驚く。俳句は短詩なので、中身の詰まった言葉を選ぶことが重要だが、「翻訳できないことば」を内包するのは名句の条件の一つなのかもしれない。
ドイツ語の「ヴァルトアインザームカイト」は、「森の中で一人、自然と交流するときのゆったりとした孤独感」を表わす。カントやフロイト、ハイデガーなど多くの哲学者を生んだドイツらしい言葉だ。壮大な自然の前で感じる清々しい孤独は、「滝落ちて群青世界とどろけり 秋桜子」(季語:滝 夏)の景に通じている。
ウェールズ語の「ヒラエス」は、「帰ることができない場所、失った場所や永遠に存在しない場所への郷愁と哀切の気持ち」を意味する。戦争で故郷が破壊されたり、飢饉などで住んでいた土地を去らざるをえなかった民族的経験が生んだ言葉だろう。
「夕映やしじましじまを渡り鳥 長谷川櫂」(季語:渡り鳥 秋)
夕陽を受けて遠くにシルエットで浮かぶ渡り鳥の群を見るとき、その人の心はきっと「ヒラエス」と呼ばれるのだろう。「ヒラエス」は翻訳の難しい言葉だが、世界の多くの詩の源泉になっているものと同等だ。
この本には日本語もピックアップされている。「コモレビ=木洩れ日」は日本独特の自然描写の言葉だ。他の国にも似た景色はあるが、それを単語で表現するのは稀なことなのだ。また「ぼけっと」は、「何も考えないでいることに、名前を付けるほど大事にしているのは素敵だ」と解説されているのが面白い。中でも「ワビサビ=侘び寂び」に対する著者のコメントが秀逸で、「生と死の自然のサイクルを受け入れ、不完全さの中にある美を見出すこと」とあった。
たった一語に俳句のすべてが呑み込まれてしまうとは思わないが、一句で詠もうとしている心情、あるいはコンセプトが、他の国の言語では一つの独立した単語となってしまうくらい大切なものとして扱われている点が興味深い。「木洩れ日」と同様、日本には「雨」にまつわる単語が世界一たくさんあり、それらが俳句の成立にかなりの利便を与えている事実は見逃せない。
 この『翻訳できない世界のことば』は2014年に出版された。当時、著者のエラ・フランシス・サンダースは二十代のイラストレーターだった。彼女が豊かな感性で集めた世界の言葉とユーモラスなイラストを掲載したブログが注目を集め、それを一冊にまとめたのがこの本である。上梓されるとすぐにベストセラーになり、その後、続編の『誰も知らない世界のことわざ』も出版された。ちなみにこちらで紹介されている日本のことわざは、「サルも木から落ちる」である。
「稲妻に悟らぬ人の貴さよ 芭蕉」(季語:稲妻 秋)

俳句結社誌『鴻』2020年10月号 
連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店