『オリオンラジオの夜』 諸星大二郎・著 小学館・刊
諸星大二郎のコミックスを紹介するのは、二度目である。以前は『諸怪志異』という本を挙げた。中国古代の怪談や因習に材を取った怪異譚を個性的なタッチで描いた傑作で、類を見ない一冊として僕は今でも手元に置いている。諸星の独特な画風は、手塚治虫をして「この絵は僕にも描けない」と言わしめ、スタジオジブリの宮崎駿や『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明などのアニメ作家たちに大きな影響を与えている。
絵ばかりではなく、諸星はストーリーテラーとしても抜群の手腕を持つ。中国や日本の古代史を渉猟し、妖怪などのこの世ならぬものを見事にキャラクター化する。あるいはSF小説や映画に精通して、そのエッセンスを各所に散りばめる。
かつて故・吉田鴻司師は「俳句は理屈や説明ではない」とよく語っていた。俳句は一元的な理屈を超えた人と自然の結び付きを詠う詩であり、その不思議な結び付きを俳句という韻文にすることで、誰もが共感する表現になる得るという師の信念から出た言葉だった。諸星作品はまさしくそれを体現したもので、新作『オリオンラジオの夜』でも“理屈を超えた美しい物語”が展開される。
『オリオンラジオの夜』は六話の短編で構成される。冬の晴れた夜にしか聞こえない“オリオンラジオ”の電波を求めて、ポータブルラジオを携えて彷徨する若者たちを主人公にした六つのストーリーが紡がれる。諸星は、歌人・笹公人の「みんなして異次元ラジオを聴いたよね卒業前夜の海のあかるさ」という短歌からこのアイデアを思いついたと後書きで語っている。多感な若者たちの熱情が生む異次元の感覚。いわば都市伝説の源となる幻視や幻聴を元に、美しくも哀しいエピソードが綴られる。
短編のそれぞれは六〇~七〇年代のヒット曲がタイトルになっている。第一話は「サウンド・オブ・サイレンス」。サイモン&ガーファンクルの名曲だ。蒸発した兄の遺していったラジオを持って真夜中の丘にやってきた少年と、受験勉強に飽きて散歩に出た友人二人が偶然出会う。しばらくするとオリオンラジオの電波に同調することに成功。ラジオから「サウンド・オブ・サイレンス」が流れてきた。その時、三人は星空にUFOを目撃し、この曲をリクエストしたのは、失踪した少年の兄だと確信するのだった。
「空蟬をのせて銀扇くもりけり 宇佐美魚目」(季語:空蟬 夏 蝉の抜け殻)
不思議な句だ。抜け殻であるはずなのに、かつてそこにいた小さな生命体の呼吸や温もりが感じられる。不思議の舞台となる銀色の扇は、まるでUFOの飛ぶ星空のようだ。理屈に反するにも関わらず、この句の景が理屈以上の説得力をもって心に飛び込んでくる。
第三話は「悲しき天使」で、ビートルズのポール・マッカートニーがプロデュースし、メリー・ホプキンが歌って世界中で大ヒットした。このエピソードの主人公は、父親に捨てられた女の子。父と一緒にオリオンラジオから流れてくる「悲しき天使」をよく聴いていたから、この歌を歌えば父が迎えに来てくれると信じて、毎晩、ラジオを片手に森に入っていく。しかし英語の歌詞は分からないので、“ラララ”という部分しか歌えない。結局、女の子は施設に引き取られてしまったらしく、町から姿を消す。その後、日本でも「悲しき天使」がヒットするのだが、オリオンラジオではその遥か以前からこの曲が放送されていたのだった。
「ゆびきりの指が落ちてる春の空 坪内稔典」(季語:春の空 春)
これもまた、不思議な句である。指が落ちることは、滅多にない。しかも空に落ちていると言うのだ。何か大切な約束を交わした代わりに、何か大切なことを忘れてしまったような喪失感。春の空の明るさと、その向こう側にある虚無の深淵が顔を覗かせる。
洋楽ばかりでなく、邦楽もテーマに選ばれる。第五話は「赤い橋」。浅川マキのデビューアルバムに収められていた隠れ名曲だ。母のいない淋しさを抱える少年が、成仏できない少女に誘われて、この世とあの世の狭間をさまよう。その途中で、少年は母が内職しながら聴いていたラジオを拾う。三途の川を彷彿とさせるシチュエーションに、伝説のコメディアン“エノケン”を登場させるあたりが諸星らしく、暗い話を明るく演出するのだった。
「花杏汽車を山から吐きにけり 飴山實」(季語:花杏 はなあんず 春)
これも楽しい幻想だ。もちろん汽車はトンネルの反対側から入って出てきたわけだが、この句を読むと山に呑み込まれていた車両が、花杏のパワーを借りてついに脱出に成功したように感じられる。
『オリオンラジオの夜』は、少年や少女の抱える淋しさや大人たちの孤立感を、愛情を込めて描く。そうした感情は、社会の複雑さや人間の心の矛盾に端を発している。それを理屈で解き明かすことは可能だろう。だが、諸星はそうはしない。架空のラジオ局に託して、希望を描こうとする。そこで音楽が重要な役割を果たすのだが、僕は俳句にもその役割を負える力があると思っている。コロナも含めて理不尽が横行する日々に、ますますその思いを深めている。
「獵期はやとしごろの目のうつくしく 田中裕明」(季語:猟期 冬)
俳句結社誌『鴻』2020年9月号 連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載