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2020.04.04
『交通誘導員ヨレヨレ日記』 柏耕一・著  三五館シンシャ・刊 

『交通誘導員ヨレヨレ日記』 柏耕一・著  三五館シンシャ・刊 

 

著者の柏耕一氏は、一九四六年生まれの七十四才。ワケあって現在は交通誘導員として、現場の路上に立っている。六十八才の時、この仕事に就いた。柏氏によれば、「六十五才を過ぎると、警備員以外で雇ってくれるところがない」。老体に鞭打って働き、今の日本の抱えるさまざまな矛盾に否応なく直面しながらも、できるだけ平静を保ちつつ、現状を淡々と描写する。そこに漂うムードには、身につまされるものがある。実際、この本はさもありなんという世情の共感を呼び、すでに六刷(昨年十一月現在)を重ねている。

本書のサブタイトルに「“最底辺の職業”の実態」とあった。どこの街の工事現場にも車や歩行者の安全を確保するために、派手な制服を着て誘導する警備員がいる。その数、全国で約二十二万人。一定規模以上の工事にはかならずこの交通誘導員の配備が義務付けられているのだが、交通誘導員の不足は深刻で、そのために工事が遅延したり中止になることさえあるという。

その不足を補っているのは、著者のような高齢者だ。今や日本の人口は七十才以上が二割を占め、元気な方も多いから、それほど不思議なことではないだろう。そして著者は、自分自身が交通誘導員の仕事に従事するうちに、「超高齢化社会に進む現代日本の縮図がここにある」と気付き、その体験の詳細をレポートすることにしたのだった。

交通誘導員の現場には、一般道路でのガス管工事、マンション敷地内のタイルの張り替え、パチンコ店の駐車場など、大小も難易度もさまざまなバリエーションがある。しかも短期間で終わる案件が多いので、常に異動が付きまとう。それだけにその場その場に合った対応を迫られる。単に交通誘導といっても、相当の理解力とコミュニケーション能力が要求されることになる。当然、マンションの住人や道路を行き来するドライバーにはいろいろな人がいるので、忍耐力も必要になってくる。

著者に言わせれば本書は、交通誘導警備員(正式名称)実体験者の日本初のレポートだ。これまで紹介されてこなかった交通誘導員の実態が興味深い。日当の相場は八千円から一万一千円くらいで、自己破産者でなく健康体であれば、まず採用してくれる。日払いもあれば寮もある。特に年齢は問わないので、自然と高齢者が多くなるのだという。昨年、話題になった「老後資金二千万円説」や年金制度への不安などが、交通誘導員の老齢化に拍車をかけているのかもしれない。

一方で、必要最小限の人数以下での現場を強いる警備会社のやり口は、ブラック企業の典型で、労働基準法に抵触しそうな問題が当たり前のように存在する。著者はこれらを指して「高齢化社会の縮図」と言い、“最底辺の職業”という自嘲が生まれるのだろうと語る。かくいう著者も出版不況のあおりを受け、長年従事してきた編集やライターの仕事から、交通誘導員へと転進せざるを得なかった。

「明日も勤めむ工衣冬日に羽ばたきて 吉田鴻司」(季語:冬日 冬)

この句には「齢四十にして鉄工生活に入る」という前書がある。鴻司は、僕の俳句の師匠で、一時離れていた句作を戦後に再開し、鉄工員に転じた頃、この句を成した。その後、角川源義と運命的な出会いを果たす。「まったく経験のない肉体労働の世界に飛び込んだので、大変だった」と、晩年の師から聞いたことがある。この句を収録した第一句集『神楽舞』には、他にも佳句が多くある。

「顎までの鉄臭除夜の湯に沈む」(季語:除夜 冬)

「油掌洗ふ砂の西日を擦りこみて」(季語:西日 夏)

「蝌蚪(かと)の睡りしづかやわれに労組なし」(季語:蝌蚪 春 おたまじゃくし)

「脱ぐ手套(しゅとう)なほ鉄握る形して」(季語:手套 冬 手袋)

「顎までの」には、慣れない仕事に就いてようやく迎えた除夜の安堵がある。「油掌」は、夏の夕方の仕事終りの手の感触が生々しい。「蝌蚪の睡り」は、理不尽な労働環境への静かな怒りがある。そして「脱ぐ手套」からは、過酷な労働の向こうに秘めた、師の俳句に賭ける情熱が伝わってくる。

『交通誘導員ヨレヨレ日記』を読んでいて、この時期の鴻司師の思いと重なる部分を多く発見した。年齢が行ってからの転職は、世の中を知っているだけに不条理や悪意を見抜けるので、辛いことも多いのではないか。それでも本書はひたすら淡々と交通誘導員の日常を描く。不平不満を抱いても、それらを無理に解決しようとはしない。解決不能な事象には、不思議なほど冷淡に当たる。

きっとそれは、著者には鴻司師と同じく秘めた熱い思いがあるからだと思う。著者は最後のページでこう述べる。「日々現場に立ちながら、本書のベストセラー化により、警備員卒業の日を夢見ている」と。柏氏は一発当てて、また本を作りたいのだ。この老人(失礼!)の不敵な夢が実現する日の近いことを、心から祈りたい。

「腰道具鳴らし電工土筆(つくし)つむ 今井はじめ」(季語:土筆 春)

 

俳句結社誌『鴻』2020年4月号

連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

注:俳句結社『鴻』は吉田鴻司の後を継ぐ増成栗人主宰の率いる結社

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2020.04.04
『交通誘導員ヨレヨレ日記』 柏耕一・著  三五館シンシャ・刊 

『交通誘導員ヨレヨレ日記』 柏耕一・著  三五館シンシャ・刊 

 

著者の柏耕一氏は、一九四六年生まれの七十四才。ワケあって現在は交通誘導員として、現場の路上に立っている。六十八才の時、この仕事に就いた。柏氏によれば、「六十五才を過ぎると、警備員以外で雇ってくれるところがない」。老体に鞭打って働き、今の日本の抱えるさまざまな矛盾に否応なく直面しながらも、できるだけ平静を保ちつつ、現状を淡々と描写する。そこに漂うムードには、身につまされるものがある。実際、この本はさもありなんという世情の共感を呼び、すでに六刷(昨年十一月現在)を重ねている。

本書のサブタイトルに「“最底辺の職業”の実態」とあった。どこの街の工事現場にも車や歩行者の安全を確保するために、派手な制服を着て誘導する警備員がいる。その数、全国で約二十二万人。一定規模以上の工事にはかならずこの交通誘導員の配備が義務付けられているのだが、交通誘導員の不足は深刻で、そのために工事が遅延したり中止になることさえあるという。

その不足を補っているのは、著者のような高齢者だ。今や日本の人口は七十才以上が二割を占め、元気な方も多いから、それほど不思議なことではないだろう。そして著者は、自分自身が交通誘導員の仕事に従事するうちに、「超高齢化社会に進む現代日本の縮図がここにある」と気付き、その体験の詳細をレポートすることにしたのだった。

交通誘導員の現場には、一般道路でのガス管工事、マンション敷地内のタイルの張り替え、パチンコ店の駐車場など、大小も難易度もさまざまなバリエーションがある。しかも短期間で終わる案件が多いので、常に異動が付きまとう。それだけにその場その場に合った対応を迫られる。単に交通誘導といっても、相当の理解力とコミュニケーション能力が要求されることになる。当然、マンションの住人や道路を行き来するドライバーにはいろいろな人がいるので、忍耐力も必要になってくる。

著者に言わせれば本書は、交通誘導警備員(正式名称)実体験者の日本初のレポートだ。これまで紹介されてこなかった交通誘導員の実態が興味深い。日当の相場は八千円から一万一千円くらいで、自己破産者でなく健康体であれば、まず採用してくれる。日払いもあれば寮もある。特に年齢は問わないので、自然と高齢者が多くなるのだという。昨年、話題になった「老後資金二千万円説」や年金制度への不安などが、交通誘導員の老齢化に拍車をかけているのかもしれない。

一方で、必要最小限の人数以下での現場を強いる警備会社のやり口は、ブラック企業の典型で、労働基準法に抵触しそうな問題が当たり前のように存在する。著者はこれらを指して「高齢化社会の縮図」と言い、“最底辺の職業”という自嘲が生まれるのだろうと語る。かくいう著者も出版不況のあおりを受け、長年従事してきた編集やライターの仕事から、交通誘導員へと転進せざるを得なかった。

「明日も勤めむ工衣冬日に羽ばたきて 吉田鴻司」(季語:冬日 冬)

この句には「齢四十にして鉄工生活に入る」という前書がある。鴻司は、僕の俳句の師匠で、一時離れていた句作を戦後に再開し、鉄工員に転じた頃、この句を成した。その後、角川源義と運命的な出会いを果たす。「まったく経験のない肉体労働の世界に飛び込んだので、大変だった」と、晩年の師から聞いたことがある。この句を収録した第一句集『神楽舞』には、他にも佳句が多くある。

「顎までの鉄臭除夜の湯に沈む」(季語:除夜 冬)

「油掌洗ふ砂の西日を擦りこみて」(季語:西日 夏)

「蝌蚪(かと)の睡りしづかやわれに労組なし」(季語:蝌蚪 春 おたまじゃくし)

「脱ぐ手套(しゅとう)なほ鉄握る形して」(季語:手套 冬 手袋)

「顎までの」には、慣れない仕事に就いてようやく迎えた除夜の安堵がある。「油掌」は、夏の夕方の仕事終りの手の感触が生々しい。「蝌蚪の睡り」は、理不尽な労働環境への静かな怒りがある。そして「脱ぐ手套」からは、過酷な労働の向こうに秘めた、師の俳句に賭ける情熱が伝わってくる。

『交通誘導員ヨレヨレ日記』を読んでいて、この時期の鴻司師の思いと重なる部分を多く発見した。年齢が行ってからの転職は、世の中を知っているだけに不条理や悪意を見抜けるので、辛いことも多いのではないか。それでも本書はひたすら淡々と交通誘導員の日常を描く。不平不満を抱いても、それらを無理に解決しようとはしない。解決不能な事象には、不思議なほど冷淡に当たる。

きっとそれは、著者には鴻司師と同じく秘めた熱い思いがあるからだと思う。著者は最後のページでこう述べる。「日々現場に立ちながら、本書のベストセラー化により、警備員卒業の日を夢見ている」と。柏氏は一発当てて、また本を作りたいのだ。この老人(失礼!)の不敵な夢が実現する日の近いことを、心から祈りたい。

「腰道具鳴らし電工土筆(つくし)つむ 今井はじめ」(季語:土筆 春)

 

俳句結社誌『鴻』2020年4月号

連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

注:俳句結社『鴻』は吉田鴻司の後を継ぐ増成栗人主宰の率いる結社

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店