HAIKU

2020.05.02
『芥川龍之介句集-夕ごころ-』 草間時彦・編  ふらんす堂・刊 

『芥川龍之介句集-夕ごころ-』 草間時彦・編  ふらんす堂・刊 

 

ウィルス禍のとある夜、本棚を物色していると、一冊の薄い文庫本が目に留まった。一九九三年にふらんす堂が刊行した『芥川龍之介句集-夕ごころ-』は、精選句集シリーズの一つ。他には『久保田万太郎句集-こでまり抄-成瀬櫻桃子・編』、『芝不器男句集-麦車-飴山實・編』、『野見山朱鳥句集-朱-野見山ひふみ・編』、『前田普羅句集-雪山-中西舗土・編』などがある。編集に後世の俳人が加わり、精選された佳句が収められていて、どれも味わいが深い。

 

何冊か持っているシリーズのうちで、芥川龍之介が気になった。手に入れてすぐに読んだものの、その後はまったく開いていない。芥川の俳句については、全体に古色蒼然としたイメージを強く持っていた。その一方で、「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」(季語:暑さ 夏)や「青蛙おのれもペンキぬりたてか」(季語:青蛙 春)などの有名な句には、どこか現代的な感覚がある。この不思議なバランスはどこから来ているのだろうとずっと思っていたから、この際、読み直してみることにした。

 

「秋風や嵯峨をさまよふ蝶一つ」(季語:秋風 秋)

「星月夜岡につゝ立つ武者一騎」(季語:星月夜 秋)

「八朔の遊女覗くや青簾」(季語:八朔 秋)

「水打てば御城下町の匂かな」(季語:打水 夏)

非常にうまくまとまっていて、格調が高い。まるで江戸俳諧である。芥川が作句を始めたのは、大正中期だった。その頃は正岡子規の後を継いだ河東碧梧桐が新傾向俳句を掲げ、自由律にまで走ったが、その勢いが衰え始めた時期だった。

芥川は家庭の事情から、東京に住む伯父の養子となっていた。この伯父は下町に土地を持つ資産家で、文人趣味を持っていた。芥川は当然、この伯父から強い影響を受けていただろうから、江戸俳諧の香りはここから生まれたのだと思われる。『芥川龍之介句集-夕ごころ-』の編者・草間時彦がこの本の解説で、芥川の周囲には新傾向俳句の影響が及んでいなかったと指摘しているが、先ほど挙げた芥川の句はまさにそのとおりの体を成している。そして僕が持った古色蒼然としたイメージは、このあたりから来ていると思われる。

 

「秋立つ日うろ歯に銀をうづめけり」(季語:立秋 秋 うろ歯は穴の開いた歯)

「暁闇を弾いて蓮の白さかな」(季語:蓮の花 夏)

「暖かや蕊に蠟塗る造り花」(季語:暖か 春)

今回、拾い直した句の一群である。確かに古色ではあるが、どこかに現代性を宿している。「秋立つ日」に潜む「銀」、「闇」を弾く「白」、塗られる「蠟」の「暖かさ」など、輝くような言葉の遣い方に目を見張る。これは、芥川の文学者としての才能だろう。やたらと新しさを狙うのではなく、正攻法での作句ながら、新鮮な表現になっている。江戸俳諧が衰退していく時期に、芥川は江戸俳諧の未知の可能性を示そうとしていたと言えるのかもしれない。

 

「あさあさと麦藁かけよ草いちご」(季語:草苺 夏)

「花降るや牛の額の土ぼこり」(季語:花 春 桜のこと)

「花散るや寒暖計は静なる」(季語:花 春 桜のこと)

今回、読み直してみて、これらの優しい句の存在にも気付かされた。「あさあさと」かける麦藁の感触、花屑と「土ぼこり」の穏やかな対比、もともと音のしないはずの「寒暖計」の静けさなど、事象に対する芥川の優しい眼差しが共感を呼ぶ。これらの句が、やがて「初秋の蝗つかめば柔かき 龍之介」(季語:初秋 秋)という傑作に繋がるのではないかという発見があった。

 

「灰捨つる路に槐の莢ばかり」(季語:槐の実 えんじゅ 秋)

「切支丹坂を下り来る寒さ哉」(季語:寒さ 冬)

「魚の眼を箸でつつくや冴返る」(季語:冴え返る 春)

「秋風や黒子に生えし毛一根」(季語:秋風 秋)

鋭敏な句も見つけた。「灰捨つる」の句は「北京」という前詞がある。昔の北京の人々は主に石炭ストーヴで暖を取っていて、ロンドンと並んで煤で汚れた街として知られていた。その路地が、槐の莢で埋め尽くされている。都市ならではの感情の乾きを、莢に託したところが非常にモダンである。

芥川は「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」(季語:水洟 みずばな 冬)や「兎も片耳垂るる大暑かな」(季語:大暑 夏)など暑さや寒さを詠むのに長けていたが、「切支丹坂」は言い得て妙。「魚の眼」の句もまたそれに準じている。「秋風」の句は、ホクロからひょろっと生えた毛がペーソスを感じさせ、芥川が小説では表現してこなかった情緒があって面白い。

 

こうした芥川の句を、時彦は「型の見事さと、洗練されたレトリックである。(中略) 型を守っていながら、その型に盛られた内容はまことに香りが高い」と評している。型を守るあまり、類型や類想に陥る俳人は少なくないが、芥川はそこから見事に飛翔した。さらに時彦は「龍之介の俳句の師を求めるなら、松尾芭蕉以外に存在しないのである」と断言する。

明治の新傾向運動をよそに、直接、芭蕉に学んだ芥川の俳句は、いっそ潔い。外出自粛の夜に、喧噪から離れて読むには、最適の一冊だった。なおこのシリーズは手作りの製本=フランス装が為されていて、手軽に持ち運べる一冊ながら、少し豪華な気分が味わえる。今回の自粛で本というメディアの有り難さと、本棚という検索システムの楽しさを改めて認識したのだった。

 

「立ちどまり顔を上げたる冬至かな 時彦」(季語:冬至 冬)

 

 

俳句結社誌『鴻』2020年5月号

連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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『芥川龍之介句集-夕ごころ-』 草間時彦・編  ふらんす堂・刊 

『芥川龍之介句集-夕ごころ-』 草間時彦・編  ふらんす堂・刊 

 

ウィルス禍のとある夜、本棚を物色していると、一冊の薄い文庫本が目に留まった。一九九三年にふらんす堂が刊行した『芥川龍之介句集-夕ごころ-』は、精選句集シリーズの一つ。他には『久保田万太郎句集-こでまり抄-成瀬櫻桃子・編』、『芝不器男句集-麦車-飴山實・編』、『野見山朱鳥句集-朱-野見山ひふみ・編』、『前田普羅句集-雪山-中西舗土・編』などがある。編集に後世の俳人が加わり、精選された佳句が収められていて、どれも味わいが深い。

 

何冊か持っているシリーズのうちで、芥川龍之介が気になった。手に入れてすぐに読んだものの、その後はまったく開いていない。芥川の俳句については、全体に古色蒼然としたイメージを強く持っていた。その一方で、「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」(季語:暑さ 夏)や「青蛙おのれもペンキぬりたてか」(季語:青蛙 春)などの有名な句には、どこか現代的な感覚がある。この不思議なバランスはどこから来ているのだろうとずっと思っていたから、この際、読み直してみることにした。

 

「秋風や嵯峨をさまよふ蝶一つ」(季語:秋風 秋)

「星月夜岡につゝ立つ武者一騎」(季語:星月夜 秋)

「八朔の遊女覗くや青簾」(季語:八朔 秋)

「水打てば御城下町の匂かな」(季語:打水 夏)

非常にうまくまとまっていて、格調が高い。まるで江戸俳諧である。芥川が作句を始めたのは、大正中期だった。その頃は正岡子規の後を継いだ河東碧梧桐が新傾向俳句を掲げ、自由律にまで走ったが、その勢いが衰え始めた時期だった。

芥川は家庭の事情から、東京に住む伯父の養子となっていた。この伯父は下町に土地を持つ資産家で、文人趣味を持っていた。芥川は当然、この伯父から強い影響を受けていただろうから、江戸俳諧の香りはここから生まれたのだと思われる。『芥川龍之介句集-夕ごころ-』の編者・草間時彦がこの本の解説で、芥川の周囲には新傾向俳句の影響が及んでいなかったと指摘しているが、先ほど挙げた芥川の句はまさにそのとおりの体を成している。そして僕が持った古色蒼然としたイメージは、このあたりから来ていると思われる。

 

「秋立つ日うろ歯に銀をうづめけり」(季語:立秋 秋 うろ歯は穴の開いた歯)

「暁闇を弾いて蓮の白さかな」(季語:蓮の花 夏)

「暖かや蕊に蠟塗る造り花」(季語:暖か 春)

今回、拾い直した句の一群である。確かに古色ではあるが、どこかに現代性を宿している。「秋立つ日」に潜む「銀」、「闇」を弾く「白」、塗られる「蠟」の「暖かさ」など、輝くような言葉の遣い方に目を見張る。これは、芥川の文学者としての才能だろう。やたらと新しさを狙うのではなく、正攻法での作句ながら、新鮮な表現になっている。江戸俳諧が衰退していく時期に、芥川は江戸俳諧の未知の可能性を示そうとしていたと言えるのかもしれない。

 

「あさあさと麦藁かけよ草いちご」(季語:草苺 夏)

「花降るや牛の額の土ぼこり」(季語:花 春 桜のこと)

「花散るや寒暖計は静なる」(季語:花 春 桜のこと)

今回、読み直してみて、これらの優しい句の存在にも気付かされた。「あさあさと」かける麦藁の感触、花屑と「土ぼこり」の穏やかな対比、もともと音のしないはずの「寒暖計」の静けさなど、事象に対する芥川の優しい眼差しが共感を呼ぶ。これらの句が、やがて「初秋の蝗つかめば柔かき 龍之介」(季語:初秋 秋)という傑作に繋がるのではないかという発見があった。

 

「灰捨つる路に槐の莢ばかり」(季語:槐の実 えんじゅ 秋)

「切支丹坂を下り来る寒さ哉」(季語:寒さ 冬)

「魚の眼を箸でつつくや冴返る」(季語:冴え返る 春)

「秋風や黒子に生えし毛一根」(季語:秋風 秋)

鋭敏な句も見つけた。「灰捨つる」の句は「北京」という前詞がある。昔の北京の人々は主に石炭ストーヴで暖を取っていて、ロンドンと並んで煤で汚れた街として知られていた。その路地が、槐の莢で埋め尽くされている。都市ならではの感情の乾きを、莢に託したところが非常にモダンである。

芥川は「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」(季語:水洟 みずばな 冬)や「兎も片耳垂るる大暑かな」(季語:大暑 夏)など暑さや寒さを詠むのに長けていたが、「切支丹坂」は言い得て妙。「魚の眼」の句もまたそれに準じている。「秋風」の句は、ホクロからひょろっと生えた毛がペーソスを感じさせ、芥川が小説では表現してこなかった情緒があって面白い。

 

こうした芥川の句を、時彦は「型の見事さと、洗練されたレトリックである。(中略) 型を守っていながら、その型に盛られた内容はまことに香りが高い」と評している。型を守るあまり、類型や類想に陥る俳人は少なくないが、芥川はそこから見事に飛翔した。さらに時彦は「龍之介の俳句の師を求めるなら、松尾芭蕉以外に存在しないのである」と断言する。

明治の新傾向運動をよそに、直接、芭蕉に学んだ芥川の俳句は、いっそ潔い。外出自粛の夜に、喧噪から離れて読むには、最適の一冊だった。なおこのシリーズは手作りの製本=フランス装が為されていて、手軽に持ち運べる一冊ながら、少し豪華な気分が味わえる。今回の自粛で本というメディアの有り難さと、本棚という検索システムの楽しさを改めて認識したのだった。

 

「立ちどまり顔を上げたる冬至かな 時彦」(季語:冬至 冬)

 

 

俳句結社誌『鴻』2020年5月号

連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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