HAIKU

2023.04.12
『とくにある日々』 かな憲人・著  小学館クリエイティブ・刊  

『とくにある日々』 かな憲人・著  小学館クリエイティブ・刊  
 ごく平凡な女子高生たちの日常を描くマンガだ。主人公は「高島きみどり」と「椎木しい」。高島は「まだ自分が何がしたいかわからない、元気な一年生」で、椎木は「何をするか決まってない状態が好きな一年生」。このモラトリアムな二人の日々には、事件と呼べるようなものは特に起きない。だが自由に使える時間の中で発見するささいな感動が、淡いタッチで描かれていてほのぼのする。そして二人の何気ない日常に、意外にも鮮やかな季節感があるのが面白い。
ある日、高島は街を歩いていて、躑躅に見入ってしまう。街のあちこちに咲いている躑躅は、改めて眺めるととてもきれいだった。一緒にいた椎木は「記憶から一旦つつじを消して、もう一度つつじを見たら感動すると思う」と言い、記憶を消すためのオマジナイとして高島の首を強く叩く。すると高島は「つつじは首が痛い状態で見てもきれいだということがわかりました」と反応。このトンチンカンなやり取りが彼女たちの日常だ。
 一方で椎木は校庭に舞い散る紅葉を拾い集めて、新しい遊びを思いつく。十二枚の落ち葉をコピー機にかけて、それぞれ四枚ずつのカードを作り、友達と「落ち葉の神経衰弱」ゲームを開催。似たような形と色彩のマッチングは予想以上に難しかったが、クラスメートたちは大盛り上がり。こんな季節の楽しみ方があるとは!
 雪の朝、高島は雪玉を手に登校する。学校の門のところで雪玉を捨てようとすると、椎木は高島に雪玉を三個積んで置くように言う。休み時間に見に行くと、高島の積んだ雪玉の塔の周りにたくさんの「雪玉塔」が立っていた。二人の後から登校してきた生徒が、同じように積んだのだ。それを見た椎木は「賽の河原みたい」とニヤリ。少し頭をひねるだけで日常に楽しさを加える二人のやり方は、俳人の遊び心とよく似ている。
 ある日、椎木が突然言い出した。「私たち、もう高校生なんだから、思いつきで気軽にもっと遠出してもいいんじゃないかな。(中略)ここからカニを見にいこうとしたら最短でどれくらいで行けるのかな」。すぐに学校を飛び出した二人は、駅の手前の居酒屋の水槽でカニを見つけてしまう。あまりのあっけなさに高島は気持ちが収まらず、このまま海へ行こうと提案。二人は電車に乗る。たどり着いた浜辺でカニを発見し、そのまま夕日を眺めることにした。椎木のアイデアと高島の実行力で充実した一日になった。
「卒塔婆のやうなアイスの棒なりき 西原天気」(季語:アイスクリーム 夏)
「ゆふぐれが見知らぬ蟹を連れてくる 天気」(季語:蟹 夏) 
 一句目、部活が終わった生徒たちがアイスを食べてひと休み。誰かが棒を砂に差すと、他の部員も真似して差した。二句目はあてもなく散歩をしていたら、幸運にも蟹に出会った。西原天気の「のんびり俳句」と『とくにある日々』には、大きな共通点があるようだ。
彼女たちの言葉に対する感覚には独特のものがある。校舎の裏を歩いていると、校舎の壁に「改メ口」という表示のある小さな扉があった。高島はそれを「あらためろ」と読んでいて、いつも通るたびに「自分自身を改めていた」という。すると椎木は、その扉は「あらためぐち」と読み「建築物の内部を点検するための扉」だと高島に教え、二人はおおいに笑い合う。 
そんな二人のユーモラスな言語センスが発揮されるエピソードがあった。枝先に蕾を見つけた椎木は「『少し歩いただけで、否応なく春をというものが目に入る程、そこら中が春に満ちているなぁ』という意訳になる句が詠めそう」とつぶやく。高島は椎木がどんな俳句を詠むのだろうとワクワクして待っていると、椎木は「実際に一句詠むのは少し大変だけど、句の意訳っぽいことを言うだけでかなり一句詠んだ気分になるよ」と言うのだった。そこで高島も負けずにこう言い返す。「黄緑の鳥と桜の色のメリハリが目を引くことだなぁ」。高島は「(俳句を)詠んでないのに、かなり詠んでる気分になる!」と感動する。
まず、意訳が先にあるという発想が面白い。そこから学校での俳句教育がどのように行なわれているのかも見えてくる。
「咲き終わった梅の隣で今まさに桜が咲いており、季節のバトンタッチを感じさせるものだなぁ」。
「遠目ではただの草むらに見えても、近くに寄ると小さな花がたくさんあることだなぁ」。 
 二人はこんな「意訳句」を連発して「詠んだ気分」を満喫する。しかしそれを見ていた国語教師は、実際に句が詠まれないことにイライラして、二人の「意訳句」を俳句にしてみせる。高島の「黄緑の鳥」を踏まえて教師が詠んだ句は「春見ゆるいたる所にめじろおし」。「ほとんど言葉遊びだけど、どこを見ても春なのと、メジロがいたのをまぜてみたの」と解説までしてしまう。この教師の句はあまりいただけないが(笑)、二人の「意訳句」はきちんと俳句の原型を成している。
 何がしたいかわからない高島と、何をするか決まってない椎木は、有り余る時間を使って楽しみを見つけ、生活をエンジョイする。その姿勢こそ、俳人に必要なものだろう。
「野遊びの終りはいつもただの道 天気」(季語:野遊び 春)

           俳句結社誌『鴻』2023年4月号 
             連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2023.04.12
『とくにある日々』 かな憲人・著  小学館クリエイティブ・刊  

『とくにある日々』 かな憲人・著  小学館クリエイティブ・刊  
 ごく平凡な女子高生たちの日常を描くマンガだ。主人公は「高島きみどり」と「椎木しい」。高島は「まだ自分が何がしたいかわからない、元気な一年生」で、椎木は「何をするか決まってない状態が好きな一年生」。このモラトリアムな二人の日々には、事件と呼べるようなものは特に起きない。だが自由に使える時間の中で発見するささいな感動が、淡いタッチで描かれていてほのぼのする。そして二人の何気ない日常に、意外にも鮮やかな季節感があるのが面白い。
ある日、高島は街を歩いていて、躑躅に見入ってしまう。街のあちこちに咲いている躑躅は、改めて眺めるととてもきれいだった。一緒にいた椎木は「記憶から一旦つつじを消して、もう一度つつじを見たら感動すると思う」と言い、記憶を消すためのオマジナイとして高島の首を強く叩く。すると高島は「つつじは首が痛い状態で見てもきれいだということがわかりました」と反応。このトンチンカンなやり取りが彼女たちの日常だ。
 一方で椎木は校庭に舞い散る紅葉を拾い集めて、新しい遊びを思いつく。十二枚の落ち葉をコピー機にかけて、それぞれ四枚ずつのカードを作り、友達と「落ち葉の神経衰弱」ゲームを開催。似たような形と色彩のマッチングは予想以上に難しかったが、クラスメートたちは大盛り上がり。こんな季節の楽しみ方があるとは!
 雪の朝、高島は雪玉を手に登校する。学校の門のところで雪玉を捨てようとすると、椎木は高島に雪玉を三個積んで置くように言う。休み時間に見に行くと、高島の積んだ雪玉の塔の周りにたくさんの「雪玉塔」が立っていた。二人の後から登校してきた生徒が、同じように積んだのだ。それを見た椎木は「賽の河原みたい」とニヤリ。少し頭をひねるだけで日常に楽しさを加える二人のやり方は、俳人の遊び心とよく似ている。
 ある日、椎木が突然言い出した。「私たち、もう高校生なんだから、思いつきで気軽にもっと遠出してもいいんじゃないかな。(中略)ここからカニを見にいこうとしたら最短でどれくらいで行けるのかな」。すぐに学校を飛び出した二人は、駅の手前の居酒屋の水槽でカニを見つけてしまう。あまりのあっけなさに高島は気持ちが収まらず、このまま海へ行こうと提案。二人は電車に乗る。たどり着いた浜辺でカニを発見し、そのまま夕日を眺めることにした。椎木のアイデアと高島の実行力で充実した一日になった。
「卒塔婆のやうなアイスの棒なりき 西原天気」(季語:アイスクリーム 夏)
「ゆふぐれが見知らぬ蟹を連れてくる 天気」(季語:蟹 夏) 
 一句目、部活が終わった生徒たちがアイスを食べてひと休み。誰かが棒を砂に差すと、他の部員も真似して差した。二句目はあてもなく散歩をしていたら、幸運にも蟹に出会った。西原天気の「のんびり俳句」と『とくにある日々』には、大きな共通点があるようだ。
彼女たちの言葉に対する感覚には独特のものがある。校舎の裏を歩いていると、校舎の壁に「改メ口」という表示のある小さな扉があった。高島はそれを「あらためろ」と読んでいて、いつも通るたびに「自分自身を改めていた」という。すると椎木は、その扉は「あらためぐち」と読み「建築物の内部を点検するための扉」だと高島に教え、二人はおおいに笑い合う。 
そんな二人のユーモラスな言語センスが発揮されるエピソードがあった。枝先に蕾を見つけた椎木は「『少し歩いただけで、否応なく春をというものが目に入る程、そこら中が春に満ちているなぁ』という意訳になる句が詠めそう」とつぶやく。高島は椎木がどんな俳句を詠むのだろうとワクワクして待っていると、椎木は「実際に一句詠むのは少し大変だけど、句の意訳っぽいことを言うだけでかなり一句詠んだ気分になるよ」と言うのだった。そこで高島も負けずにこう言い返す。「黄緑の鳥と桜の色のメリハリが目を引くことだなぁ」。高島は「(俳句を)詠んでないのに、かなり詠んでる気分になる!」と感動する。
まず、意訳が先にあるという発想が面白い。そこから学校での俳句教育がどのように行なわれているのかも見えてくる。
「咲き終わった梅の隣で今まさに桜が咲いており、季節のバトンタッチを感じさせるものだなぁ」。
「遠目ではただの草むらに見えても、近くに寄ると小さな花がたくさんあることだなぁ」。 
 二人はこんな「意訳句」を連発して「詠んだ気分」を満喫する。しかしそれを見ていた国語教師は、実際に句が詠まれないことにイライラして、二人の「意訳句」を俳句にしてみせる。高島の「黄緑の鳥」を踏まえて教師が詠んだ句は「春見ゆるいたる所にめじろおし」。「ほとんど言葉遊びだけど、どこを見ても春なのと、メジロがいたのをまぜてみたの」と解説までしてしまう。この教師の句はあまりいただけないが(笑)、二人の「意訳句」はきちんと俳句の原型を成している。
 何がしたいかわからない高島と、何をするか決まってない椎木は、有り余る時間を使って楽しみを見つけ、生活をエンジョイする。その姿勢こそ、俳人に必要なものだろう。
「野遊びの終りはいつもただの道 天気」(季語:野遊び 春)

           俳句結社誌『鴻』2023年4月号 
             連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店