HAIKU

2021.12.06
『スマホ脳』 アンデシュ・ハンセン・著  新潮新書・刊    

『スマホ脳』 アンデシュ・ハンセン・著  新潮新書・刊    

 『スマホ脳』の著者アンデシュ・ハンセンはスウェーデン出身の精神科医で、スマホが脳に与える影響についての数多くの論文を精査して本書を著した。母国はもちろん世界中で話題となり、日本でも約一年かけてベストセラーになった。日本版の帯には「スティーブ・ジョブズはわが子になぜiPadを触らせなかったのか?」というショッキングなコピーが付いている。つまりスマホの開発者本人が、「スマホの弊害」について自覚していたというのだ。「触らせなかった」というのは言い過ぎだが、実際、ジョブズはわが子のスマホに触る時間を制限していたらしい。では一体どんな弊害があるというのか。
著者は科学者らしく慎重に論考していく。その前提となっているのは、人間の長い歴史の中で脳の性質はほとんど変化しておらず、外敵から身を守り、食料を確保することを第一義としてきたことだ。しかし現代になって生活様式が激変したことで、脳と社会がミスマッチを起こしていると指摘。ここ数十年で生活が豊かになったのに、精神の不調を訴える人が大幅に増えたことに対する危機感からこの本は始まっている。
本書でいちばん驚いたのは、2011年を境に不調者が劇的に増大した事実だった。その年、それまでは高級品だったiPhoneが入手しやすくなり、アメリカの若者に一億二千万台が売れた。その後の彼らの「精神的不調」の中身が興味深い。若者たちの感じているのは、喪失感や絶望感ではなく、「自分は幸せではない」や「孤独を感じる」といった漠然としたものだった。それはLINEやフェイスブックなどのソーシャルメディアによって「常に他人と自分を比べてしまう」ことや、「実際に対面していない状態でのコミュニケーション」に起因しているのではないかと著者は言う。自殺願望や破壊衝動といったアクティブな不調ではなく、内面をじわりと締め付ける不安感が主に若年層に広がった。精神科医の著者は不気味に増え続ける受診者を通して、ことの重大さに気付いたのだった。 
本書の多くのページはソーシャルメディアが人間の脳の仕組みを利用して、広告ビジネスを展開していることに割かれている。「いいね」をもらうと報酬として脳内にドーパミン(快楽物質)が放出され、ずっとスマホに触っていたくなる。そこに効果的に広告を打つことで、LINEやフェイスブックは莫大な売り上げを得た。だから著者は言う。「無料で使えてラッキーと思っていたら、大間違いなのだ」。あらゆることが無料で検索できる便利さはあるものの、ソーシャルメディアは使用者の脳を研究しつくして、できる限りたくさんの広告を送り込むことを最優先させる。それゆえみんなが喜びそうな刺激的なニュースを選び出し、真偽も確かめずにフェイクニュースを拡散させることも厭わない。この無責任な所業は、最近になってようやく糾弾されるようになった。
僕がもっとも面白いと思ったのは、「グーグル効果」の項だった。「デジタル性健忘」とも呼ばれるこの現象は、あるデータが別の場所に保存されていると、脳が自分で覚えようとしないというもの。「必要な時にググればいいや」というヤツだ。被験者グループを美術館に連れていき、写真を撮ってもいい絵と、見るだけの絵に分けて指示し、その後、どれくらい覚えているかを試したところ、見るだけの絵の方の記憶が明らかに勝っていたという。記憶するのにはカロリーを多く使うので、脳はどこかに保存されていると分かると積極的に記憶しようとはしない。それは少ないカロリーで生きなければならなかった太古からの習慣なのだ。
ここで思い当たる言葉があった。この連載の初期に取り上げた美学者ロラン・バルトは著書『表徴の帝国』で、「俳句は子供が『これ!』と言って指差す動作を復元するもので、その時、心のシャッターを切るカメラからは、あらかじめフィルムが抜かれている」と述べている。旅先でやたらと写真を撮る人がいる。しかし彼らがその風景を覚えているのかは疑問だ。デジタル性健忘の写真は、ただの自己満足のデータとして倉庫にしまわれ、その倉庫の扉は一生涯開けられることはない。一方で、俳句を作ろうとして心のカメラのシャッターを切るとき、フィルムが入っていないことを知っていれば、脳は自分の記憶にしっかりと刻み込もうとする。そしてそれを俳句にすることができれば、個人的な記憶を超えて、一句として他の人と共有できる作品にさえなる。
幼児のデジタル端末使用の悪影響や、ティーンエイジャーの不眠症など、恐ろしいエピソードが満載の一冊だ。しかし最後に、至ってシンプルな解決法が提示される。それは、スマホをできるだけ遠ざけること。それほどスマホ依存は強く悪質で、一日離れただけでも絶大な効果があると説いている。 
そして俳人にはそれよりもっと良い解決方法がある。渾身の一句を詠めたとき、きっと脳内にはスマホ以上にドーパミンが大量に放出される。決定的瞬間を切り取る作句の意志は強靭なものであり、デジタルには決して置き換えられない。
「乾鮭に雲の流るる速さかな 北村操」(季語:乾鮭 冬)

                俳句結社誌『鴻』2021年12月号 
                連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2021.12.06
『スマホ脳』 アンデシュ・ハンセン・著  新潮新書・刊    

『スマホ脳』 アンデシュ・ハンセン・著  新潮新書・刊    

 『スマホ脳』の著者アンデシュ・ハンセンはスウェーデン出身の精神科医で、スマホが脳に与える影響についての数多くの論文を精査して本書を著した。母国はもちろん世界中で話題となり、日本でも約一年かけてベストセラーになった。日本版の帯には「スティーブ・ジョブズはわが子になぜiPadを触らせなかったのか?」というショッキングなコピーが付いている。つまりスマホの開発者本人が、「スマホの弊害」について自覚していたというのだ。「触らせなかった」というのは言い過ぎだが、実際、ジョブズはわが子のスマホに触る時間を制限していたらしい。では一体どんな弊害があるというのか。
著者は科学者らしく慎重に論考していく。その前提となっているのは、人間の長い歴史の中で脳の性質はほとんど変化しておらず、外敵から身を守り、食料を確保することを第一義としてきたことだ。しかし現代になって生活様式が激変したことで、脳と社会がミスマッチを起こしていると指摘。ここ数十年で生活が豊かになったのに、精神の不調を訴える人が大幅に増えたことに対する危機感からこの本は始まっている。
本書でいちばん驚いたのは、2011年を境に不調者が劇的に増大した事実だった。その年、それまでは高級品だったiPhoneが入手しやすくなり、アメリカの若者に一億二千万台が売れた。その後の彼らの「精神的不調」の中身が興味深い。若者たちの感じているのは、喪失感や絶望感ではなく、「自分は幸せではない」や「孤独を感じる」といった漠然としたものだった。それはLINEやフェイスブックなどのソーシャルメディアによって「常に他人と自分を比べてしまう」ことや、「実際に対面していない状態でのコミュニケーション」に起因しているのではないかと著者は言う。自殺願望や破壊衝動といったアクティブな不調ではなく、内面をじわりと締め付ける不安感が主に若年層に広がった。精神科医の著者は不気味に増え続ける受診者を通して、ことの重大さに気付いたのだった。 
本書の多くのページはソーシャルメディアが人間の脳の仕組みを利用して、広告ビジネスを展開していることに割かれている。「いいね」をもらうと報酬として脳内にドーパミン(快楽物質)が放出され、ずっとスマホに触っていたくなる。そこに効果的に広告を打つことで、LINEやフェイスブックは莫大な売り上げを得た。だから著者は言う。「無料で使えてラッキーと思っていたら、大間違いなのだ」。あらゆることが無料で検索できる便利さはあるものの、ソーシャルメディアは使用者の脳を研究しつくして、できる限りたくさんの広告を送り込むことを最優先させる。それゆえみんなが喜びそうな刺激的なニュースを選び出し、真偽も確かめずにフェイクニュースを拡散させることも厭わない。この無責任な所業は、最近になってようやく糾弾されるようになった。
僕がもっとも面白いと思ったのは、「グーグル効果」の項だった。「デジタル性健忘」とも呼ばれるこの現象は、あるデータが別の場所に保存されていると、脳が自分で覚えようとしないというもの。「必要な時にググればいいや」というヤツだ。被験者グループを美術館に連れていき、写真を撮ってもいい絵と、見るだけの絵に分けて指示し、その後、どれくらい覚えているかを試したところ、見るだけの絵の方の記憶が明らかに勝っていたという。記憶するのにはカロリーを多く使うので、脳はどこかに保存されていると分かると積極的に記憶しようとはしない。それは少ないカロリーで生きなければならなかった太古からの習慣なのだ。
ここで思い当たる言葉があった。この連載の初期に取り上げた美学者ロラン・バルトは著書『表徴の帝国』で、「俳句は子供が『これ!』と言って指差す動作を復元するもので、その時、心のシャッターを切るカメラからは、あらかじめフィルムが抜かれている」と述べている。旅先でやたらと写真を撮る人がいる。しかし彼らがその風景を覚えているのかは疑問だ。デジタル性健忘の写真は、ただの自己満足のデータとして倉庫にしまわれ、その倉庫の扉は一生涯開けられることはない。一方で、俳句を作ろうとして心のカメラのシャッターを切るとき、フィルムが入っていないことを知っていれば、脳は自分の記憶にしっかりと刻み込もうとする。そしてそれを俳句にすることができれば、個人的な記憶を超えて、一句として他の人と共有できる作品にさえなる。
幼児のデジタル端末使用の悪影響や、ティーンエイジャーの不眠症など、恐ろしいエピソードが満載の一冊だ。しかし最後に、至ってシンプルな解決法が提示される。それは、スマホをできるだけ遠ざけること。それほどスマホ依存は強く悪質で、一日離れただけでも絶大な効果があると説いている。 
そして俳人にはそれよりもっと良い解決方法がある。渾身の一句を詠めたとき、きっと脳内にはスマホ以上にドーパミンが大量に放出される。決定的瞬間を切り取る作句の意志は強靭なものであり、デジタルには決して置き換えられない。
「乾鮭に雲の流るる速さかな 北村操」(季語:乾鮭 冬)

                俳句結社誌『鴻』2021年12月号 
                連載コラム【ON THE STREET】より加筆・転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店