
『三鬼』 小林恭二・著 講談社・刊
この小説のタイトルの『三鬼』は、俳人・西東三鬼のこと。著者の小林恭二は『俳句という遊び』や『短歌パラダイス』など短詩に関する著書を多く発表している小説家で、『三鬼』は恭二の十七年ぶりの新作小説となる。
俳句にまつわる小説としては藤沢周平の『一茶』や嵐山光三郎の『悪党芭蕉』が有名で、このコラムでも紹介した。『一茶』は心優しい好々爺というイメージの強い一茶の凄まじい俗人ぶりを描いた名作で、『悪党芭蕉』は俳聖として名高い芭蕉の別の一面を暴いている。そして『三鬼』は数奇な運命をたどった稀代の現代俳人を、虚実取り混ぜ外連味たっぷりに描いて楽しませてくれる。特別高等警察(以下、特高)との陰湿なやり取りや、俳句に弾圧を加える権力とのスリリングな攻防にラブロマンスを絡ませる展開は、まさに小林恭二ワールド。俳人でなくとも楽しく読めるエンターテイメントになっている。
ストーリーの軸となるのは一九四〇年に治安維持法違反により俳人・俳誌を弾圧した「京大俳句事件」。これは新興俳句弾圧事件の契機となった。自由な作風を求めた若手俳人らが次々に特高に逮捕され、俳誌「京大俳句」は廃刊に追い込まれる。だが不思議なことに「京大俳句」の中心人物のひとりであった三鬼は当分逮捕されなかった。三鬼は外堀を埋められ、じりじりと追い込まれていったのだった。
ある意味、陰謀小説のような設定だ。ただ俳句に国家権力を脅かすような力があるのだろうか。自然を詠む俳句と政治闘争はまったく無縁なものに思える。僕が「京大俳句事件」を考えるとき、いちばん疑問に思うのはそこである。おそらく恭二もその点に疑念を抱き、この小説で三鬼が巻き込まれた事件の本質に迫ろうとしたように思う。
三鬼の最初の登場シーンが面白い。三鬼は「中年ドンファン」という仇名で呼ばれる。現代では「紀州のドンファン」事件などというものがあったりして、この仇名はあまりよろしくないものだ。しかし東南アジアをテリトリーに貿易商を営む三鬼は、粋な服を着こなし、ダンスも上手な洒落者で、この仇名をさして気にする様子もない。
そんな三鬼の素性が次第に明かされていく。彼はアジアの海を股にかけて活躍した倭寇の血筋に生まれ、勇躍の志を持つ父親に育てられ、何かと三鬼を助けようとする兄たちの尽力があっての上で自由な人生を謳歌していた。シンガポールで歯科医院を開業し、中国人やインド人、マレー人とも交流を重ねる。
商才があり、人間の心理に通じている伊達男。そんなキャラクターはあまたいる俳人の中になかなか見当たらない。俳人といえばたいていは地味ななりをして、世渡り上手を嫌う。さもなければ和服に利休帽を被って宗匠を気取る阿呆な輩も多い。中で三鬼はかなり特殊だった。世事に長け、時勢に明るく、度胸もある。恭二はそんな特異な人物像に着目して三鬼を主人公に選んだのだと思われる。「京大俳句事件」の推移に沿って、三鬼をめぐる当時の俳人たちが繰り広げる人間模様が小説の核になる。
そこで役に立つのが「中年ドンファン」というニックネームだ。血気にはやる若者でもなく、頑固ジジイでもない。酸いも甘いも噛み分ける「中年」は軍や為政者の企みを見抜き、軽薄な「ドンファン」は要人の集まるパーティーで相手の油断を誘う。この小説が派手なアクションがないわりに十分スリリングなのは、「中年ドンファン」という三鬼の設定によるところが大きい。憎めない「中年ドンファン」だからこそ、巻き込まれた弾圧事件の無意味さやくだらなさが引き立つ。
小説『三鬼』が『一茶』や『悪党芭蕉』と決定的に異なるのは、俳句の引用が極端に少ないことだろう。その意味で『三鬼』は「俳句小説」とは言えないかもしれない。その代わりに俳壇での覇権争いがクールな視点で描かれる。当時の俳壇を牛耳っていた高濱虚子が、正岡子規の俳句革命をどう受け継いだのか。虚子が子規に対する裏切りとも言えるやり方で権力の頂点の座を獲得したこと。その後、虚子が高弟4S(秋桜子、誓子、素十、青畝)と勢力争いを繰り広げたこと。その過程で俳句の根幹を争いの道具として使ったことなどを、恭二は一刀両断。「俳壇事情暴露小説」と言った方がいいかもしれない。そうした人間劇のそちこちに、恭二独自の俳句観が顕れているのが『三鬼』の読みどころだ。
特別高等警察部長をはじめ、陸軍航空総監や警視総監、NHK文芸部長まで 登場する「京大俳句事件」とは何だったのか。三鬼は実際、不逞俳句運動の首魁だったのか。何より本当に俳句は治安を乱すほどの凶器だったのか。『三鬼』は興味深い問題提起を多く含んでいる。小説の最後に俳句弾圧の驚くべき真相が大悪人・虚子の口から語られる。それは読んでのお楽しみ。
それにしても三鬼さんには一度、お会いしたかった。いや、会った気になる数奇な一冊である。
「中年や遠くみのれる夜の桃 三鬼」(季語:桃)
俳句結社誌『鴻』2026年9月号より
連載コラム【ON THE STREET】加筆・転載



















