HAIKU

2018.05.04
立川談志の『現代落語論』が今、面白い!

『現代落語論』 立川談志・著  三一書房・刊 

 

天才落語家の最初の著作である。1965年に刊行された本書で、30才を前に真剣に古典落語と取り組む立川談志が、当時の伝統芸能を取り巻く状況について鋭い問題意識をもって論陣を張る。その指摘は的を得ているのだが、今、この本を読むと、落語の抱える問題がさして変わっていないことに気付かされ、50年も前の危機がいまだに続いていることに呆然とさせられる。考えてみれば、その危機的状況は俳句にも通じている部分が多々あって、興味を惹かれることとなった。

 

談志はこの著書の前半で、古典落語の基本的な面白さとその仕組みを解説する。談志の知識の豊富さと、思考の明解なことにまず驚かされる。この時点で談志の持ちネタは百とも百五十とも言われていた。噺を二度聞いたらおおかた覚えてしまうという記憶力と、それらをわかり易く分類する整理能力は大変なものだ。

たとえば落語には「落ち」のあるものと、人情噺のように「落ち」のないものがあるという。「落ち」には十二種類があり、その中から「考え落ち」「見立て落ち」「地口落ち」「逆さ落ち」「トタン落ち」「間抜け落ち」を解説する。各種の「落ち」の選び方を見ているだけで、談志の知識量と経験、何より落語に対する愛情が伝わってくる。

談志は落語ばかりでなく、当時の優れた映画やジャズについても考察し、その見解も興味深い。チャップリンは代表作とされる『殺人狂時代』で「一人殺せば殺人で、百万人殺せば英雄と言われる」という文学的な名セリフを吐いたが、チャップリンの本領は『モダンタイムズ』や『ゴールドラッシュ』のドタバタに内在する人間性にあると見抜く。その視点から、落語におけるドタバタと芸術について語るあたりが本書前半の焦点だろう。

「私は“芸”の術、芸における技術が芸術だと思っていました。ところが(中略)近頃、文学的背景を持たぬものは芸術ではない、という感じが多分にして来た」と危機感を述べる。映画などの当時のエンターテイメントの中に、落語を置いて論じている点が非常に素晴らしい。

 

とはいえ古典落語には“江戸の雰囲気”が必要不可欠であり、その背景となる人情や生活信条の変化は止めることができない。また台頭してきたテレビやラジオなどのマスコミにも対応しなければならない。そこから談志の古典落語の生き残りを賭けた格闘が始まるのである。

落語のイントロである“マクラ”に現代の話題を取り入れてみたり、若手研究会では批評家と論を戦わせたり、果ては座布団から立って漫談をやってみたり、徹底した実証主義を貫く。テレビで放送される落語では、テレビカメラに合わせた演出を施し、会場にいる観客にテレビモニターを見ることを勧めたりした。これなどは最近、NHKで放送されて人気の『超入門!落語THE MOVIE』を先取りしたアイデアだと言えるだろう。だが、この方法でも古典落語は救えなかった。

新作落語は、そこに現代の詩があり人情があればいいとしながらも、古典落語の語り口で新作落語を語るのは無理があるのではないかと、談志は悩み続ける。そして至った結論は、「落語は“能”と同じ道をたどりそうなのは、たしかである」というものだった。この苦い言葉と対決するために、談志は落語協会を脱会し、立川流落語会の家元となって闘い続けたのだった。

 

今回、この本を取り上げようと思ったのは、実は俳人協会が発行する「俳句文学館」4月号に、気になる記事があったからだ。新人賞選考委員の感想のひとつに「安心して読めた」というのがあった。それを読んで、若手俳人の発掘育成という観点からすると、この基準でいいのだろうかと思ったのだ。僕は新設された新鋭俳句賞の選考にも、同じような違和感を抱いていた。ベテランが安心して読めるものに賞を与えることが、若手の活性化に本当につながるのだろうかという素朴な疑問が湧いた。そこで“落語の改革者”だった談志の出発点を確かめてみたくなった。談志は古典落語を真剣に愛していた。それを現代に定着させることに、無理を承知で挑んだ。同時に若手の育成にも励んだ。

 

本書で談志は、同時代を生きた“爆笑王・林家三平”を、「最初の頃はひどかったが、そこからともかく自分の世界を創っていった」と高く評価している。おそらく若手の発掘には、この“談志の眼”が必要だ。そうして育成とは、独自の世界作りに手を貸してあげることだと思う。

もし「俳句は“能”と同じ道をたどりそうなのは、たしかである」のが今であるなら、俳句界も変わらなければならない。“現代俳句”ではなく、“新作俳句”と呼べるものを作り出す力のある若手を見つけ出し、育てることに邁進するべきだろう。

 

「瀧壺に瀧活けてある眺めかな 中原道夫」(季語:瀧 夏)

「滝壺を持たない滝や自爆テロ 北大路翼」

この新旧ふたつの力強い句を見る限り、俳句はまだ“遺産”ではない。

 

俳句結社誌『鴻』2018年5月号より転載

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弱虫のロック論2 GOOD CRITIC
著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店
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2018.05.04
立川談志の『現代落語論』が今、面白い!

『現代落語論』 立川談志・著  三一書房・刊 

 

天才落語家の最初の著作である。1965年に刊行された本書で、30才を前に真剣に古典落語と取り組む立川談志が、当時の伝統芸能を取り巻く状況について鋭い問題意識をもって論陣を張る。その指摘は的を得ているのだが、今、この本を読むと、落語の抱える問題がさして変わっていないことに気付かされ、50年も前の危機がいまだに続いていることに呆然とさせられる。考えてみれば、その危機的状況は俳句にも通じている部分が多々あって、興味を惹かれることとなった。

 

談志はこの著書の前半で、古典落語の基本的な面白さとその仕組みを解説する。談志の知識の豊富さと、思考の明解なことにまず驚かされる。この時点で談志の持ちネタは百とも百五十とも言われていた。噺を二度聞いたらおおかた覚えてしまうという記憶力と、それらをわかり易く分類する整理能力は大変なものだ。

たとえば落語には「落ち」のあるものと、人情噺のように「落ち」のないものがあるという。「落ち」には十二種類があり、その中から「考え落ち」「見立て落ち」「地口落ち」「逆さ落ち」「トタン落ち」「間抜け落ち」を解説する。各種の「落ち」の選び方を見ているだけで、談志の知識量と経験、何より落語に対する愛情が伝わってくる。

談志は落語ばかりでなく、当時の優れた映画やジャズについても考察し、その見解も興味深い。チャップリンは代表作とされる『殺人狂時代』で「一人殺せば殺人で、百万人殺せば英雄と言われる」という文学的な名セリフを吐いたが、チャップリンの本領は『モダンタイムズ』や『ゴールドラッシュ』のドタバタに内在する人間性にあると見抜く。その視点から、落語におけるドタバタと芸術について語るあたりが本書前半の焦点だろう。

「私は“芸”の術、芸における技術が芸術だと思っていました。ところが(中略)近頃、文学的背景を持たぬものは芸術ではない、という感じが多分にして来た」と危機感を述べる。映画などの当時のエンターテイメントの中に、落語を置いて論じている点が非常に素晴らしい。

 

とはいえ古典落語には“江戸の雰囲気”が必要不可欠であり、その背景となる人情や生活信条の変化は止めることができない。また台頭してきたテレビやラジオなどのマスコミにも対応しなければならない。そこから談志の古典落語の生き残りを賭けた格闘が始まるのである。

落語のイントロである“マクラ”に現代の話題を取り入れてみたり、若手研究会では批評家と論を戦わせたり、果ては座布団から立って漫談をやってみたり、徹底した実証主義を貫く。テレビで放送される落語では、テレビカメラに合わせた演出を施し、会場にいる観客にテレビモニターを見ることを勧めたりした。これなどは最近、NHKで放送されて人気の『超入門!落語THE MOVIE』を先取りしたアイデアだと言えるだろう。だが、この方法でも古典落語は救えなかった。

新作落語は、そこに現代の詩があり人情があればいいとしながらも、古典落語の語り口で新作落語を語るのは無理があるのではないかと、談志は悩み続ける。そして至った結論は、「落語は“能”と同じ道をたどりそうなのは、たしかである」というものだった。この苦い言葉と対決するために、談志は落語協会を脱会し、立川流落語会の家元となって闘い続けたのだった。

 

今回、この本を取り上げようと思ったのは、実は俳人協会が発行する「俳句文学館」4月号に、気になる記事があったからだ。新人賞選考委員の感想のひとつに「安心して読めた」というのがあった。それを読んで、若手俳人の発掘育成という観点からすると、この基準でいいのだろうかと思ったのだ。僕は新設された新鋭俳句賞の選考にも、同じような違和感を抱いていた。ベテランが安心して読めるものに賞を与えることが、若手の活性化に本当につながるのだろうかという素朴な疑問が湧いた。そこで“落語の改革者”だった談志の出発点を確かめてみたくなった。談志は古典落語を真剣に愛していた。それを現代に定着させることに、無理を承知で挑んだ。同時に若手の育成にも励んだ。

 

本書で談志は、同時代を生きた“爆笑王・林家三平”を、「最初の頃はひどかったが、そこからともかく自分の世界を創っていった」と高く評価している。おそらく若手の発掘には、この“談志の眼”が必要だ。そうして育成とは、独自の世界作りに手を貸してあげることだと思う。

もし「俳句は“能”と同じ道をたどりそうなのは、たしかである」のが今であるなら、俳句界も変わらなければならない。“現代俳句”ではなく、“新作俳句”と呼べるものを作り出す力のある若手を見つけ出し、育てることに邁進するべきだろう。

 

「瀧壺に瀧活けてある眺めかな 中原道夫」(季語:瀧 夏)

「滝壺を持たない滝や自爆テロ 北大路翼」

この新旧ふたつの力強い句を見る限り、俳句はまだ“遺産”ではない。

 

俳句結社誌『鴻』2018年5月号より転載

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著・平山 雄一
出版社: KADOKAWA / 角川書店